ゼラニウム





 「お前、ホントにゲーム弱いな」

 「ええ、まあ……、どうにも苦手なようでして。こういった類のものは」


 オセロの盤面の石を見つめながら、古泉が苦笑した。
 小賢しそうな、もとい得意そうな顔をしているだけに意外だ。

 長門は珍しく用があるらしく、部室に顔を出さなかった。
 いつも空気みたいに本を読んでるだけの奴でも、いなければいないでその開いた空間分部室が広く感じるものだなどとぼんやり考えていると、目の前の古泉が次手の石を置いたのでオセロの盤面に視線を戻した。
 ハルヒはハルヒで今日も絶好調のようで、朝比奈さんいじりに余念がない。
 今日はなんでも新しいコスプレ衣装作りのために詳細なサイズ計測が必要だとかで、ごねる朝比奈さんをむりやり家庭科室に拉致していった。今度の衣装は手芸部の知り合いに依頼したとかほざいていたが、一体何を作るつもりなのかはあまり知りたくない。
 そういうわけで、今この部室には俺と古泉の二人きりだ。



 「ああ、また負けてしまいました」

 本気で取り組んでいるとは甚だ思えない笑顔で、古泉が後頭部を掻く。
 暇つぶしとしても、いささかゲームには飽きた。

 「そろそろ終わりにするか」

 「そうですね」

 古泉は俺の提案にすんなり同意すると、見事に黒に染まっている盤面の石を片付け始めたので、俺も準じて石を重ねてケースに収める作業を手伝った。石をしまったプラスチックケースの蓋を取ろうと俺の方へ古泉が手を伸ばす。
 その瞬間、ふわりと何かが鼻腔を掠めた。淡い花のような、微かな香り。

 「……古泉、お前、なんかつけてるか?」

 「ああ……、すみません、匂いますか」

 さっき少し袖口に溢してしまって、と胸ポケットから取り出したのは小さな銀色のアトマイザだった。古泉の掌に楽に納まるそれの中で、薄い琥珀色の液体が揺れている。

 「お前…香水なんかつけてるのか?どういうシュミだ」

 男の癖にと出かかったがやめた。例えば俺が香水をつけていたとするとどんな理由があっても物凄く気色悪いが、それが奴だとやけに様になっていてはまる、ということもあると思えたからだ。顔のいいやつはそれだけで得だ。
 俺の苦渋も露な表情を見てか、古泉はおかしそうに含み笑いをもらした。

 「いや、身仕舞やマナーと訳じゃないんですが……忘れない為にね」

 「匂いをか?」

 「ええ。………思い出の香りなんです」

 そう零した古泉の表情に、何かズキンと来た。
 何に対するダメージだ、これは。

 古泉は机の上の俺の手をとると、制服の袖を少し捲って、手首のあたりにそれをわずかばかり吹きかけ、白い指先で内側の脈打つ部分を押さえると、馴染ませるように軽くそこをなぞった。そのまま袖を顔に近づけると、古泉と同じ匂いがした。
 
 言われてみれば、この香りを嗅いだのは初めてじゃない。
 ほとんど匂いとも認識できないくらい微かなもので、かなり接近したときにくらいしかわからないものだったから気に留めなかったが。
 甘さの薄い、爽やかな、いかにも古泉に似合いそうな香りだ。

 手の上の筒状のアトマイザを器用そうな指でもてあそびながら、
 奴は言葉を続ける。

 「例えば街中で嗅いだことのある香水をつけた女性とすれ違うとします。それがもし昔付き合っていた彼女がつけていたものと同じだったりすると、あなたはその彼女の記憶が鮮明に脳裏に蘇るでしょう?」

 どういう例えだ。それは。

 「匂いというものは、記憶の想起のトリガーとして重要なものなんですよ」

 にこりと俺と目を合わせて一瞥すると、古泉はアトマイザをポケットの中にしまった。  嫌な感じだ。胸の中でどろりとしたどす黒い正体のわからないものが心臓から染み出してくるような、嫌な感覚。目の前にいるいつもと同じ古泉が、一瞬知らない表情を浮かべたように見えたからか。そんなのは知らない。

 ゼラニウムの仄かな香りが、鼻腔に纏わりつく。
 古泉がこうして近くにいるとき、時折ふいに漂っては何となくいい匂いだと感じていたその香りが、自分の体から発せられているとそれはそれで別物のように感じた。
 思い出の香りって、誰の思い出だよ。
 例え話はお前の実体験か?
 冗談っぽく聞いてみればよかったのに、からからの喉が閉鎖してしまったように、不思議とその台詞だけが出てこなかった。



 聞かなけりゃよかったのにな。



 傷ついたように勘違いされるのも癪なので、黙ったまま何も感じてない振りをした。  目線だけを下に落としていると、やがて苦笑するような口調の「すいません」が降ってきた。なにがすみませんなんだ。お前何でもとりあえずイエスとすみませんと冗談ですだけ言ってればいいと思ってるんじゃないだろうな。

 「さて、そろそろ行かなくては。バイトがありますので」

 恋人同士でしか通じない隠喩を舌にのせるような甘い声で古泉が言う。
 この場合、少なくとも一般人で古泉のバイトと称する秘密を知るものは俺しかいないので、隠喩は間違いではない。が、恋人同士は間違いだ。間違いだと…思う。
 パイプ椅子の上のバッグを取り上げた古泉が、「あなたはどうしますか?」と聞いてきたので、もう少しだけ残ると返事をした。ハルヒより先に帰ったりしたら後が怖い。

 「そうだ」

 部室のドアノブに指をかけたところで、思い出したように古泉が振り返った。

 「その香りの名前、教えておきます」




 「"Je veux etre avec vous"
 ………あなたの側にいさせて、ですよ」




 それだけ言うと、古泉は今度はいつものようには笑わずに部室の外に消えた。



 ハルヒ達が帰ってくるまで、あとどれくらいだろうか。
 俺は踵を返すと、PCの前に乱暴に座り込みそのまま突っ伏した。
 そうして目を閉じていると、誰もいない部室の静寂と消えそうな残り香と遠ざかる古泉の足音が、どうしようもなく胸に痛かった。






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こういう内容の古キョンな夢を見まして…いや眼福だった
ちょっと古→←キョンな感じで、キョンの方が好き度高め。
古泉の言葉に行動に気持ちが振り回されるキョン萌えです



update:07/09/10



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