今、恋をしている

















 それを明確に自覚した瞬間を線引きするのは難しいが、強いて言うのなら僕の場合は、その引き金はいつもの彼との放課後のボードゲームの最中、駒を渡される際に触れた指先だった。
 差し出した手のひらににぽつん、と置かれた黒のナイト。
 掠めるようにわずかに触れた彼の指先、爪は短く切り揃えられていて、最近の乾燥した空気のせいでか少しだけささくれの立った人差し指の縁、骨の輪郭が浮いた関節、なめらかな手の甲には斜陽が骨格に沿って細い影を落としていていて、直ぐに引っ込められたそれが散らばった次の駒を摘み拾い上げるまでの、たった一秒にも満たないそのシーンの、僕に触れた彼の指先、が何故か僕の脳裏に焼きついて離れなくなるのと同時に、ああ、僕は彼が好きなんだ、と、自覚というよりは納得したのを覚えている。
 自分にはまるで関係のない、別世界の話だと思っていた。
 或いはドラマや映画といったフィクションの世界。
 愛だの恋だのなんて彼女に言わせれば精神病の一種であり、実際にその通りだと思う。それは彼に対する慕情を意識する前と後でも変わりはない。これは病気だ。
 寝ても覚めても、彼のことばかり考える。
 思考と思考の狭間の僅かな隙をついて、気がつけば記憶の中の彼の姿を追っている。
 殆ど妄想と言った方が正しい、空想だ。
 思いつく限りの彼の一挙一動、零した言葉、微細な表情の変化、まだ見たことがないであろう顔や、知らない癖、仕種、そして制服の下に隠された、おそらく誰にも見えない彼の、心のうち。
 彼に纏わるすべてを知りたい、触れてみたいと、際限なく湧いてくる飢えるような欲求。
 それは実際に彼と相対している時も同様で、例えばこうしてゲームに興じている最中でも、彼の些細な一言も聞き漏らすまいとして結果、考えていた次の手を忘れたり、次手自体を忘れることすら日常茶飯事だ。
 そうして呆れたように言う彼のやれやれ、という溜息混じりの台詞だとか、僕の皆無と言っていいゲームの才能に対する罵倒すら嬉しく感じてしまうのだから末期だ。
 あからさまに嫌そうな顔をする彼があまりに可愛らしく思えてつい、僕は意味もない笑顔を深くしてしまうのだけれど、それを彼がどう捉えているかはわからない。もしかしたら嫌がらせくらいに思われているのかもしれない。

 「なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言え」

 仏頂面の彼が、不機嫌そうに頬杖をつく。
 ええそうなんです、貴方に言いたいことが沢山あるんです、聞いて欲しいことも、教えて欲しいことも、許して欲しいことも山のようにあって、何から申し上げればいいのか分からないほどなんです、と、伝えることが出来るだけの勇気が僕に備わっていれば、その結果がどうあれ少しは楽になっていたのかも知れない。
 言いたいことなんて何も、と無難な微笑でもって真逆の回答をするのは、染みついてしまった虚しい習性だ。
 本当は言ってしまいたい。
 言ってしまおうか、貴方が欲しいと。
 今だって、手渡されたナイトを握った手のひらから離すのが惜しいほど、そうして貴方が触れているクイーンにすら嫉妬できそうなほどに、貴方が好きなんです。
 彼が他の誰かに笑いかけるたびに心が曇る。
 級友とふざけあっている姿を見れば、彼の中での彼らと僕の違いは何なのだろうと羨ましく感じる。朝比奈みくるや長門有希に対しては無論、彼女に至っては言うに及ばず。
 そんな嫉妬と独占欲に満ちた醜い感情と、彼を何より愛おしく思う恋情。相反し反発し鬩ぎあうそれは、どちらも同じ名前でと呼ばれるものなのだと、初めて知った。
 僕を真っすぐ見据える彼の双眸がふと、窓の外へと揺らいだかと思うとそのまま静かに、瞼が下りた。夕陽に染まった彼の、細い睫毛が薄く滑らかな皮膚の上に影を落とす。

 「言いたくないなら、いい」

 長机の上に、指を丸めた掌が置かれている。いつ見ても綺麗だ、と思う。
 どこもかしこも平凡だなんて彼は言うけれど、爪の形や指の長さ、均整のとれたそれはきっと誰の目にも美しい筈だ。
 けれども、彼のそういうところは手だけではないのだと、他にもずっともっと沢山あるのだと、知っているのはこれから先も僕一人でいい。
 それに触れたい、と焼けつくように願った。その手に掌を重ねて温度を知れば、凝り固まった僕の心の奥の偽らざる本音が解けてこぼれてくるような気がした。
 このまま僕が手を伸ばせば彼はどうするだろう。嫌がって拒否するだろうか、それとも。瞼を閉じてうつむいた彼が再び顔を上げる前に、それを実行出来たなら。そうしたら言ってしまえるだろうか。

 僕は今、貴方に。





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でもやっぱりなんでもないですって言っちゃうんです


update:09/10/07



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