目が覚めるとベッドの中だった。


 重たい瞼を何とか持ち上げると、部屋の中は既に真っ暗な帳が落ちている。
 いったいどれくらい気を失っていたんだろうか。

 なんだかやけに息苦しいと思ったら、横臥した状態の身体に、がんじがらめに搦め捕るみたいにしなやかな腕が絡んでいた。身じろぐのも一苦労だ。
 よく妹が、嫌がるシャミセンを無理やりこんなふうに抱きしめて眠っているっけな。
 きつく抱きしめるから嫌がられるんだと何度言っても、抱きしめていないと逃げるからと言ってきかない。まさにその時のシャミセンの気分だ。
 背中には温かな胸が密着していて、暖房の切れた室内はそれなりに冷え切っていたものの、その体温に安心感を覚える。

 ゆっくりと腕をほどくと、スプリングを軋ませないよう気をつけて上体を起こした。
 身体はすっかり綺麗になっていて、あれだけぐちゃぐちゃに汚されたにも関わらず、べたつくところもなくなっていた。バスルームで失神したあと、古泉が洗い流してくれたんだろう。びしょ濡れにシャワーをぶっかけられて駄目になったシャツの代わりに、古泉の部屋着用のシャツが着せられている。
 横に目をやると、暗がりの中、古泉が静かに寝息を立てていた。
 カーテンの隙間から差し込む外の明かりに青白く照らされた寝顔もやっぱり綺麗で、整った顔はどんな状態でも崩れないもんなんだなとぼんやりと思う。
 瞼におちた影がどことなく憂いの色を含んでいて、それに少し胸が痛んだ。

 さっきまでの、俺を散々に嬲っていた最中の古泉の、冷たい視線が脳裏に浮かぶ。
 射抜くような強い視線。
 思い返すだけで、ぶる、と背筋が震える。

 初めて古泉を、心底怖いと思った。

 あんなふうに怒りをあらわにする古泉なんて、今までその片鱗すら知らなかった。
 どんな時でも平静を崩すことのなかった古泉を、そこまで怒らせたのが外ならぬ自分自身の迂闊だということに鬱蒼とした気分になる。

 ベッドボードの時計に目をやると、すでに十時近くになろうという時間だった。
 いつもだったらこのままし崩しに泊まっていくのが通例なのだが、どうしても今日はそう出来る気分ではない。眠っている間に勝手に帰ったりしたら、また機嫌を損ねてしまうかもしれない。けれど。

 もしも古泉が、朝目覚めても俺を許してくれていなかったら。

 侮蔑するような、斥けるようなあの冷淡な目をまた向けられたら。
 そうしたら、俺はもうどうしていいかわからない。


 携帯を所持していながら連絡を怠った理由を親に何と説明したものかと考えつつ、ゆっくりと音を立てないように毛布から這い出る。
 フローリングに足を下ろし、立ち上がろうとした瞬間、

 「……っ、!?」

 足に力が入らず、がくん、と腰が落ちる。
 なんとかベッドのふちにつかまって床との衝突は避けられたが、俺はそのまま床の上にへたりこんだ。吃驚するほど下半身に力が入らない。
 途端、立ちくらみみたいな強い眩暈がして、掌をついたフローリングの木目が歪んで見えた。

 「……、…っう、…」

 気持ち悪い。
 我慢できないほどじゃないが、内蔵が内側から圧迫されているような感覚に、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
 身体を少しでも動かすと、いたぶられ熱をもった部分がひどく痛んだ。
 いつもみたいな疼痛じゃない。入り口付近だけじゃなくて、奥のほうまで何とも言えないじくじくとした不快感がある。無理に拡げられたせいだろうか。
 何だか濡れたような感触がある気がするし、何より古泉がまだ中に居るみたいな、ひどい異物感が残っている。
 初めて抱かれたときだってこうは痛まなかった。
 どんなに無茶苦茶だと思うような行為を強いられたって、くたくたに疲れこそすれこんなふうならずに済んでいたのは、古泉がいつだって俺の身体のことを気遣っていたからなんだろう。
 逆に言えば、そんな配慮も吹き飛ぶほどに逆上していた訳だ。古泉は。

 「……………」

 ゆっくりと、ふらつく足を叱咤して立ち上がる。
 床に散らばった衣服を拾い上げると、古泉を起こさないようそっと寝室から出た。
 制服のシャツはランドリーにあった古泉のものを拝借し、着替えを済ますと、投げ捨てられた鞄を拾い上げ玄関に向かう。
 足取りが覚束なく、一歩ごとに身体が悲鳴を上げるように軋んだ。
 駅まで辿り着けるどころか、まともに歩けるかどうかも怪しかったが、それでもここで古泉が目覚めるのを怯えながら待つよりはずっといい。
 ブレザーの裾を眼窩に当てると、泣き腫らした目許が痛んだ。
 冷気の中を歩いているうちに腫れが引くといいんだが。
 外が寒かった所為だと、妹は思ってくれるだろうか。



 ともすれば鳴咽を上げそうになる肩を何とか押さえ込んで、
 俺は冷たいリビングを振り返らず後にした。















ルール オン ジェラシー 7

























 思い返してみると、そう長くもないが古泉と付き合うようになってから今までに、多少の口論はあれど喧嘩らしい喧嘩というのはしたことがない。

 俺がどんなに古泉を突き放そうが、ガキみたいな悪態を突こうが、往々にして古泉が苦笑して「すみません」とか「仕方ないですね」とか妥協する台詞を吐くからだ。
 それが俺にはこの期に及んで本心を隠そうとする、奴の虚栄に思えて面白くなかったのだが、それも奴なりの優しさの表現なのかもしれないなどと今更に思ったが、ともかく、古泉を怒らせてしまったという前例のない事態に俺は今直面している。








 どんなに明日が来なければいいと願っていても、朝はやって来るわけで、
 登校の義務も免れない。

 家に着くなり泥のように眠り、翌朝になっても身体の中に蟠ったままの疲れにぐったりしながら、俺はその日の授業を殆ど睡眠に費やした。
 出来ることなら放課後がやってくるのが少しでも遅くなりますようにと願っていたが、時間に願いをかけたところで無駄な努力であり、授業終了後俺は鉛と化した身体を引きずって部室に向かった。
 身体はつらいし、ハルヒにはどやされるし散々だ。
 おまけに無断早退の責を負って今日は団活に励行するよう釘を刺された。
 こうなってしまえば、俺には大人しく部室へ向かう以外の選択肢は皆無だ。



 控え目にノックしてドアを開けると、中にはすでにメイド姿の朝比奈さんと長門がいた。

 「あ、キョン君。こんにちはぁ」

 今日も変わらず愛くるしい笑顔の朝比奈さんに、少しばかり憂鬱な心が軽くなる。
 挨拶を返すと、いつもの席に座った。
 席につくなり無意識にため息をついた俺に、朝比奈さんはすかさず「具合でも悪いんですか?」と声をかけてくる。

 「そういえば、なんだか顔色もよくないみたい…」
 「いえ、大丈夫ですよ。ちょっと寝不足なだけで」

 掌を振りながら取り繕うと、ふと、窓辺の長門の突き刺さるような視線を感じた。
 長門になら俺の不調の原因も理由も把握されてそうだと思うのは、俺の杞憂ではあるまい。頼むから口にしてくれるなよ。
 それを察知したかどうかは微妙なところだが、長門は暫く俺の顔をじっと見たあと、また元通り本の虫と化した。


 「こんにちは」


 そう律義な挨拶とともに、ドアを開け放たれる。

 思わずびくついて扉に目を向けると、そこには微笑を浮かべた古泉が立っていた。
 まるで昨日の激昂が嘘のような、いつも通りの古泉だ。一体どんな顔をして会えばいいのかと悩んでいた俺は、少しばかり肩透かしを喰らったような気がした。

 「おや、涼宮さんはいらっしゃらないようですね」
 「ええ、軽音部に用があるって言ってました」

 湯呑みをひとつ足して、お茶を汲みつつ答える朝比奈さんに
 古泉はやや苦笑を向け、

 「そうですか。…すみませんが、小用が入ってしまったので
  今日も休みますとお伝えいただけますか」
 「あ、そうなんですか?わかりました。涼宮さんが戻ってきたら
  そう伝えておきますね」
 「ありがとうございます」

 朝比奈さんの了承の返事を待って、古泉はそれでは失礼しますと軽く頭を下げつつ挨拶し、再び扉を閉め出て行った。規則的な足音が廊下を遠ざかっていく。

 俺はその一連の流れを、ぼう然と見つめていた。
 そのぼう然が愕然に変わったのは、古泉の足音が完全に聞こえなくなったあとだった。
 なぜなら、


 「…………」


 その短いやり取りの間、古泉は一度も俺と目を合わせることはなかった。

 偶々じゃない。わざとだ。
 まるで存在自体が見えていないかのように、一瞥もしなかった。

 背中がすっと冷たくなるのがわかる。





 「あれ?キョンくん、どこ行くんですか?」


 そう呼び止める朝比奈さんの声に返事もせず、気がつくと俺は古泉の後を追って
 部室を飛び出していた。






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update:08/2/6



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