一番最初に見た彼の顔を、今でも鮮明に覚えている。
 新緑の時期、彼女に半ば強引に袖を引かれて行った部室で挨拶を交わしたのは、正確には二度目だ。彼にとってはそれが僕との初対面だったであろうが、僕が彼を知ったのは実際に学校へ転入するよりひと月は前で、涼宮ハルヒの監視という任務に就くにあたって機関から渡された膨大な資料の中に含まれていた写真の一枚だ。
 胸から上を正面から捉えた制服姿の彼は無表情で、どこか眠たそうな目をしていた。
 真新しいプレスのついた白いシャツを第一ボタンまで留めてはいるものの、ネクタイはさも締め慣れていないといった形に、少しだけ歪んで不格好だった。
 ふうん、というのが第一印象だ。
 これが機関の一部では神と定義される少女のお気に入りか。
 平凡や退屈を嫌う彼女らしからぬチョイスなんじゃないだろうか。少なくとも写真の上ではどこにでもいそうな、なんの変哲もないごく一般的な男子高校生にしか見えない。報告書や資料を端々まで見た限りでも、彼はなんの能力も持たない『普通の人間』とされていた。そんな彼が何故彼女の傍にいるのか甚だ不思議としか思えなかった。
 その彼との邂逅となった写真が、彼の生徒手帳に貼付されているものだと知ったのは、それからまた幾分か経った初夏の頃だ。
 部室で彼の指定鞄からこぼれ落ちた手帳を拾い上げた時、偶然ページが開き中の写真が覗いたのだ。思わずそれを注視してしまった僕に気がついたのか、彼は、見んな馬鹿、とたちまち僕の手からそれを取り上げた。

 「………なんだよ、何かおかしいか」
 「あ、いえ………、ただ」

 前髪が今より短いな、と思いまして、と答えると、煩い入学式前に切り過ぎたんだこの時は、と、彼はいつもするように、不機嫌そうに眉をしかめてそっぽを向いた。
 今では彼の前髪は、五月に初めて会った時と比べても少し伸びて、眉にかかるかかからないかの長さになっている。そのこげ茶の髪を摘み上げて、そろそろまた切りに行かないとな、と彼が独り口のように呟いた。
 初めて見た時には何も感慨もなかった写真も、現在となっては、今此処にいる彼の僕と出会う以前の姿なのだと思うと、胸の奥がじわりと暖かくなるような柔らかなもので絞られるように切なくなるような、何とも形容し難い感覚に陥るのだから現金なものだ。恋というのは。
 たった数ミリ髪が伸びる間に、僕は彼を好きになって彼無しでは居られなくなった。
 いつか必ず離別が来るものだと、分かっていながら。


















メランコリック・ブルー 13.75























 パソコンのキーボードの上に、彼の写真を戻した封筒を、書類と一緒に放り出すようにして置くと同時に携帯が鳴った。
 マナーモードにしておいて良かった。
 呼出音が鳴れば隣のリビングで眠っている彼を起こしてしまうところだっただろう。
 低い振動音を立てるそれをポケットから取り出し液晶を見ると、青白いランプが瞬くと共にメールの受信完了画面が表示されている。差出人は無論、森さんだ。
 僕が昨日から電話攻勢を無視しっぱなしだったため、メールという手段に出たらしい。
 受信フォルダを開くと、タイトルの無い新着メールを開く。

 『いい加減になさい。今からそちらへ迎えに行きます。』

 たった二行のメールから彼女の怒りが痛いほど伝播してくるようだ。
 彼女を怒らせるのはよくない、とこの数年の付き合いで知っていたので、実際僕は今まで彼女の連絡を無視したり、ましてや命令に背くようなことも一度たりとてしたことがない。まるでまめでよく気がつく恋人のように忠実で誠実に。規律違反で殺されないといいのだが。
 細く溜息をつく。デスクの照明を切ると、踵を返し寝室のドアをくぐる。
 帳が落ちて薄暗く静まった室内の、ラグの上で彼は先程と変わらない様子で寝息をたてていた。また随分と無理をさせてしまったから、もう暫くは目を覚まさないだろう。
 すべてを終えた後、濡れタオルで汚した身体を拭き、内側も綺麗にして元通りに衣服を戻す間も、相当疲弊したのか彼は目を開ける気配すらなかった。
 なるべく音を立てないように歩み寄ると、風邪を引いてはいけないからと掛けた毛布の上から、覆いかぶさるようにして顔を近づける。
 薄闇の中、すうすうと規則的な寝息が鼓膜に触れる。
 まだ少し涙で濡れている睫毛の数すら数えられそうなほどに近づくと、額と額が柔らかな髪越しに当たった。
 そっと密やかに、薄く開いたまま吐息を零すくちびるに、自分のそれを押し当てる。
 彼の意識の有無に関わらず、こうなってから今まで何度となく奪ってきたというのに、こうしてみればやはり例えようもなく甘美な感触に思えて、まるでこれが初めての口付けであるかように胸がきつく痛んだ。それももうこれが最後だ。

 「…さようなら」

 唇を触れ合わせたまま、自分ですら聞き取れるか聞き取れないかの掠れた声で囁くと、そっと彼を起こさないように身を起こす。
 目についた紙に、招請が来たので行きます、鍵は持っていて下さいと思いついた短い伝言をボールペンで走り書きすると、彼が買って来てくれた、食料の入ったコンビニのビニール袋が置きっぱなしになっているローテーブルの上に、部屋の鍵と一緒に置いた。
 同時に再び携帯が鳴り出す。相手は言うまでもない。
 携帯電話だけを手に取ると逃げるようにしてリビングを後にし、廊下を抜けて玄関へと向かう。玄関のドアチェーンを外しサムターンを廻す間、彼が起きてしまったりしませんように、と心の中で祈った。決して物音に気づいた彼が目を覚まして僕の名前を呼んだりしませんように、僕を呼び止めたりしませんように、と、ただそれだけが怖くて、

 後ろは振り返らなかった。







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update:09/09/04



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