「いい天気ですね」





 真横から古泉の声がした。

 唐突に、まるで暗転したスクリーンに映画の続きのワンシーンが映し出されるように、俺はバスケットコートとそれを囲うように林立する銀色のフェンスが見える場所に立っていた。
 見覚えがある。ここは市営コートだ。
 その上に広がる目が眩むほど強いコントラストの、積乱雲の白と抜けるような空の青。
 フィルムを無造作に切って貼り合わせたような符合しない場面転換と、限りなく現実に近いのにどこか違和感の残る感覚に、ああ、これは夢なんだと悟る。
 いや、正確には唯の夢じゃなくて、実際にあったいつかの記憶だ。

 あの、まだ盛りの蝉が煩い、暑い夏の日の。





 「いくらいい天気でも、こう暑くちゃな」

 俺は古泉が座っているベンチに置いてあったタオルで、汗まみれの額を拭った。
 タイムと言って無理やり抜けて来たが、ハルヒの奴はいまだ元気に朝比奈さんと長門にキリキリ指示を出しつつバスケットコートを走り回っている。
 この時は確か、二、三日前に読んでいた少年漫画の影響だったな。

 「付き合わされる方の身にもなれってんだ」

 ため息を吐きつつ、隅に備え付けてある自販機に小銭を入れボタンを押した。
 取り出した冷え切った缶ジュースのプルトップを開けると、一気に煽る。

 「ふふ、結構楽しんでらしたじゃないですか」
 「馬鹿言え」

 部室でも涼しい顔をしている古泉も、この炎天下の茹だるような暑さは堪えるのか白い首筋にうっすら汗の滴が浮かんでいる。
 俺はその隣に座ると、

 「飲むか?」

 まだ中身が半分ほど残っている缶を差し出したら、古泉がさも想定外と言いたげに
 目を丸くして俺を見た。

 「何だよ」

 人の飲みさしは嫌か?と尋ねると、はっとしたように慌てた様子でいいえ、そういう訳では、と返事をする。

 「いただきます」

 缶を渡すとき、わずかに手が触れ合った。
 古泉が飲み口に口をつけるのと同時に、俺は頭を正面に向けてコートを見た。
 コート上の三人が相変わらず、というかいつも通り、朝比奈さんは怯え長門は立ち尽くし、ハルヒ一人が走り回っている。その様子をぼんやりと傍観していると、不意に古泉が呟いた。

 「何と言うか……あまり、経験がないもので。こういう事は」
 「そうか?回し飲みくらい、ダチ同士なら割と普通じゃないか」

 古泉がまた俺を見る。
 何でいちいち目を丸くするんだ。こうして会話している時にお前から笑顔が消えると、俺は何か変なことを言ったんじゃないかと心配になるんだ。

 「…すみません」

 そう言って古泉が笑った。
 いつもの笑顔じゃなく、ちょっと困ったような苦笑。
 何でだろうな、こいつがそういうふうな笑い方をするとどこか寂しげに見える。


 考えつくだけのハンディキャップをつけた2on1に飽きたのか、ハルヒが二人を引き連れてコートから引き上げてくる。

 「やれやれ、やっとお開きか」

 貴重な休みの土曜日を潰してまで、何が悲しくてバスケ部でもないのに炎天下を走り回らねばならんのか。いつからうちはスポーツ愛好会になったんだ?

 「ふふ。…何だかんだ言っても、僕は結構好きですけどね」

 休憩所の庇から日向へ出ようとした足を止め、背後の古泉を振り返る。
 古泉の白いシャツが、風に撫でられ襟を揺らした。

 「こうしてSOS団の面々と…、いえ」









 「…あなたと、こういう時間を過ごすのは」

















メランコリック・ブルー 14














 玄関のドアが閉まる音で意識が浮上した。

 途端に身体が床に埋まりそうな激しい重力を感じる。
 別に意識がない間に地球の重力が増した訳でもなんでもなく、単に身体が疲弊しきっているだけなんだと気がつくまでに数秒はかかった。
 まぶたを持ち上げ、数度瞬きする。
 室内の電気は消されていて、真っ暗な中を豆球の微かなオレンジ色の明かりが、ぼんやりと部屋の輪郭を浮かび上がらせているだけだった。

 「……こいずみ?」

 返事はない。
 さっきのドアの開閉音は、古泉が出て行ったのか。

 のろのろと僅かに上半身を起き上がらせると、身体の上には毛布がかけられている。
 また寝ている間に後処理はしてくれたらしく、シャツもズボンも元通りになっていて、ブレザーはきっちりハンガーにかけられ壁に下げられていた。
 えらく痛む腰を叱咤して起き上がると、すぐ横のローテーブルの上には書き置きと思しきメモが置いてあった。
 電気をつけ、蛍光灯の白光色に目を慣らす。
 メモには、




  『招請が来たので行きます。
   鍵は持っていて下さい。


   すみません

             古泉』





 と、相変わらず雑な字で走り書きされていた。
 添えられていた、鈍く銀色に光る鍵を指先で持ち上げる。この部屋の合鍵らしいそれが、俺の掌の上でチャリ、と微かな音を立てた。

 機関の仕事というのは、体調不良が理由では休めないんだろうか。
 ちょっとだけ不憫のような気もする。いやいや、あんな肉体労働する元気があるなら大丈夫に決まっている。同情の余地など一片もあるまい。
 テーブルにはメモの他に、俺が買ってきてやった食糧がビニール袋に入ったまま手付かずで放置されていた。

 どこまでも恩知らずな奴だ。
 せめて食ってから行けばいいのに。

 俺はまだ少しふらつく足を宥めつつ立ち上がると、家に帰るべくブレザーを着込んだ。
 携帯を確認すると、もう短針が9時を廻っている。
 善意の見舞いのはずが、とんだとばっちりだ。



 カーテンの隙間から見える空はとっくに更けて、月も見えない漆黒だった。




















 翌朝、教室に入るなり古泉の様子をやかましく尋ねてきたハルヒに、俺は「本当に体調が悪かったらしい」と報告した。
 他がどうあれ体調不良は本当だしな。
 ハルヒは暫く訝しげな表情をしていたが、熱があったことや食糧調達までしてやったことを掻い摘んで話すと、漸く一応は納得したらしかった。
 俺としても、このまま自分で言い出したレポート提出を忘れていてくれるように祈る。
 とてもじゃないが他人にレポートできるような見舞い内容じゃなかったからな。
 あとは放課後、古泉自身に弁明してもらってくれ。
 そのくらいの言い訳は考えてあるだろうから。

 そんなことを考えつつ、俺はホームルームも始まらないうちから欠伸をした。




 今にして思えば、通常どおりの退屈な授業も、
 俺に与えられたつかの間の平和だったのだ。















 そして放課後。

 頼むから古泉とふたりっきりという事態にだけはなりませんように、と八百万の神に祈る思いで扉をノックして開けると、中には長門ひとりだ。

 「なんだ。長門、お前だけか」

 いくらかほっとしつつ、鞄を長机に置く。
 ハルヒは帰りのホームルームが終了するなり一番に教室を飛び出して行ったが、まだ来ていないらしい。朝比奈さんもまだのようで、ユニフォームのメイド服が慎ましくハンガーに下げられたままだ。
 自分で茶を入れようかどうしようか悩みつつパイプ椅子に腰を下ろすと、ぱたん、と渇いた音を立てて、終了時刻でもないのに長門がハードカバーを閉じた。
 俺がそちらへ視線をやると、立ち上がり俺の方へ歩み寄ってくる。

 「ん?…どうした?」
 「…………」

 小動物のように丸くて硬質な瞳が、どこか物言いたげにじっと俺を見下ろす。
 何事か紡ごうと長門の唇が動いた次の瞬間、



 「いったいどーなってんのよッ!!!!」




 計測して百ホンを超えていたとしても驚かないほどの大音量と共に、
 部室のドアが蹴破られた。

 「すすす、涼宮さん、お、落ち着いてくださ…」
 「これが落ち着いていられるかっていうのよ!!」
 「ひぇッ…」

 ハルヒに腕を掴まれ引きずられるようにして、朝比奈さんも登場する。
 だんだんと床を貫通させそうな足音を立て、乱暴に室内へ入ってくるハルヒに右へ左へ振り回されて、まるで荷物扱いだ。
 凄まじいの剣幕のハルヒの恫喝に、可哀相に恐怖の余り眦に涙が浮かんでいる。

 「おい…ハルヒ、今度はなんだ」

 怒鳴りたいならまず朝比奈さんを離してやれよ。
 今にも気絶しそうな勢いで怖がってるぞ。

 般若面のような形相で、ハルヒが俺を睨み付ける。

 「どうもこうもないわよ!!何なのよ、あの九組の担任!適当なことばっかり言って!SOS団団長のあたしを差し置いてそんなこと、有り得ないに決まってるのに!!」

 だから何があったって言うんだ。
 九組担任がお前に何をしたのかは知らんが、まさかその剣幕で担任を昏倒させてきたんじゃないだろうな。

 俺が思いっきり苦渋の表情を作ってため息をつくと、
 ハルヒは長机に乱暴に掌をたたきつけ言った。








 「古泉君が、今週付で転校するって言うのよ!!」






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続きます

update:07/11/11



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