翌日の日曜といえば、前日のことが嘘のような穏やかさで、近頃そんな何でもない時間のひとときも持てずにいた俺にとっては非常に貴重な一日だった。
心中ハルヒの気まぐれやら古泉の思いつきやらで呼び出されたりしないものかとヒヤヒヤしつつ、何度携帯の電源を落とそうかと思ったか分からない。
実際にやると後が面倒なことは火を見るが如しなので諦めたが。
それも杞憂で呼出は鳴ることもなく、いや、正確には一度古泉から着信はあったが、無視した。というよりは出る前に切れた。わざわざかけ直してやるほど人間が出来てもいないので、無視したで間違いは無い。
つまるところ俺は昼間さんざん妹の買い物やら宿題やらに付き合わされ、残った時間をシャミのノミ取りに没頭しているうちに日が暮れた。
健全たる男子高校生としては可愛い女の子との約束のひとつもなく休日を殆ど引きこもって過ごすのはどうかとも思うが、この際贅沢は言うまい。
終日フリーで好きに過ごせただけ景福だ。
フリーすぎて、ふとした瞬間に例の超能力者の顔が浮かんできたとしても、誰に文句のつけようがあるはずもない。
メランコリック・ブルー 11
「もしも、僕が…」
嫌でも頭の中でリフレインするフレーズだ。
考えて正解が出るものでもないが、気になってしまうのだから仕方がない。
特に風呂場というのは、他のスペースと比較して視覚的情報が少ないから考え事をするには持って来いだと言うしな。
俺は湯舟に首まで浸かりながら、蛇口から規則的にしたたる水滴が湯に落ちてゆるやかな波紋を描くさまを見つめていた。そうしてぼんやりしていると、隙をつくように脳内で自動再生される昨日の記憶をトレースする。
もしも、僕が。
そう紡いだ古泉の唇の後は、エスカレーターを降りていく後ろ姿。僕が、のあとに続けられる言葉のヒントらしきものは記録されてなさそうだ。
どうして俺が古泉の言動なんぞをこんなに気にかけなきゃならんのか、と憤慨してみても、どうしてもどこか引っ掛かってしょうがない。
あの時の、古泉の真剣な顔があまりにも印象強かったからだろうか。
何か大事なことを切り出そうとするような、そんな。
「…………」
嘆息した。
わかるもんか。
せめてもう一文節ヒントをくれていれば、検討がついていたかもしれないのに。
あれだ。テレビでやってる脳力トレーニングやらなんやらの問題、ああいうのを見て、なかなか解けない問題を考えてる時のモヤモヤした気分。あれと同じ状態だ。
解消する方法は簡単、解答を見りゃあいい。
大概そういう問題に限って理屈が単純なもんで、わかってしまえばそれまでハイおしまい。それでも、それがわかっているのにコマーシャル明けの解答ギリギリまで考えてしまうのは、やっぱり人間の分からないことを理解したいという知的欲求が働くからに外ならない。
よって明日の部活、嫌でも顔を合わせた時にでもちょろっと聞けば済むことを、こんなにうだうだ考え続けてしまうのは、俺が知的生命体であるが故の本能であって決して、
「……ああもう」
古泉のことが気になるからではない。
俺は天井を仰ぐと、そのまま息を止めて湯舟に沈んだ。
どうして皆して物事を俺を悩ませる事態ばかりに持って行こうとするんだ。
出来ればこのまま二週間くらい沈んでいたいなどと現実逃避しながら、息が続く限り明日起こり得るであろう問題の対処マニュアルをシミュレートする。
目を開けてみても、水の中から仰ぎ見る世界は輪郭を留めないほどに歪んで、まともに見えるものは何もなかった。
「休み?」
思わず素っ頓狂な声が出て驚いた。
そんな俺の顔を一瞥すると、ハルヒはPCの前に頬杖をついた姿勢のまま、ぷいっと顔を横向かせた。
休みは勿論古泉だ。
金曜に引き続き月曜、二回連続部活欠席。
我らが団長様はこれ以上ない不機嫌そうな表情をまるで隠そうともしない。
その様子を見ている限り、古泉が休んだとしても仕方がないんじゃなかろうかとも思える荒れようだ。いつ閉鎖空間が出現してもおかしくはないぞ。
「本人が言うには今日は具合が良くないらしいけど」
また電話したのか。
「おかしいわ。絶対。あの真面目な古泉君が二回も続けて休むなんて」
「調子が悪いなら仕方ないだろうよ」
鞄を長机に預けながら言うと、ハルヒが恐ろしく鋭い目つきで俺を睨みつけた。
おお怖。泣く子も更に泣きわめく眼力だ。
「キョン、アンタが何かしたんじゃないでしょうね!」
「何で俺だ!!」
どっちかっつうと何かしたのは奴の方だ!
と舌の上くらいまで出かかったが堪えた。
「部活に出れないような理由があるとしたら、アンタが何かしたに決まってるじゃないの」
壮大なまでに失礼な奴だ…。
理屈のついてこない第六感の決めつけもここまでくるといっそ清々しい。
その豪胆さを俺の折れそうに繊細な神経にも分けてもらいたいと切に願うよ。
というか休んでるのは部活だけじゃなくて学校もじゃないか。どっちかというと部活が付属だろう。
「アンタ、土曜は一緒だったんでしょ?何かなかったの?気づいたこととか。何か悩んでる風だったとか…」
とりあえず心当たりがないと告げると、アンタに聞いてもアテにならないわね、と勝手なことをほざきながら息を吐いた。なら最初から聞くなよ。
「でも、ホントに具合が悪いなら心配ね…お見舞いに行かないと」
ハルヒならそう言い出すことぐらい読めないと、SOS団では到底やっていけない。
そしてその発言内容がどんなに突飛で世間一般の常識から逸脱していたとしてもだ。逆らわない。口答えしない。貝になって嵐が過ぎ去るのを待つ。それがここでの正しい処世術だ。いちいち気にかけていたら胃潰瘍で病院送りが末だ。だから例え、
「それじゃ、キョン。アンタ団を代表してお見舞い行ってきて」
などという斜め上を行く台詞が返って来たとしても。
「何で俺一人なんだよ!?」
さすがに口答えせずにはいられまい。
当然の疑問だ。
「だって大勢で押しかけたら迷惑じゃない。お見舞いはごく少人数で速やかに、が社会一般のマナーでしょ」
お前の口からよもや社会一般などという言葉が出ようとはな。常識とか通念とかいう概念は丸めて唾吐いて公園の池鯉の餌にでもするタイプだと思っていたが。
「じゃあ団長のお前が代表で行くべきなんじゃないのか?」
「ホントはそうしたいところなんだけど、団長とはいえあたしも女子だし。いきなり女の子が家に訪ねてくるのって困るものだって聞いたわ。いかにも気を使いそうな感じだしね、古泉君」
だからどうしてそういうピンポイントで気聡いんだ。
気を使うなら今の俺の心境を読んでくれよ。泣きそうだぞ。はっきり言って。
ちら、と窓際の隅で置物化して一連のやりとりを右から左へ流している長門を見遣る。
長門なら俺の気持ちを察して助け舟を出してくれないものか、と期待したが、当の長門様は本のページを見るのと同じ目で俺を一瞥したあと、また通常の本をめくる作業に戻った。やっぱ無理か…。
「いや実は俺このあと急用が」
「見え透いたウソついたって無駄よ。何よ!同じ団の仲間のよしみじゃないの。見舞いくらい命令されなくても行くのが筋ってものじゃない!」
つかつか歩み寄り、俺のネクタイを握りしめハルヒががなり始める。
こうなったらこちらが白旗上げるまで黙らないのは、残念なことに身に染みてるんだ。
「…わかったよ。行けばいいんだろ」
お見舞いの一連の流れと古泉の様子をレポート用紙四枚にまとめてくるというボーナスミッションまで背負って、俺が漸く校門を出たのは午後6時を廻った頃だった。
幸か不幸か、古泉の住まいと俺の最寄駅は同じだ。
なので、駅までの道程は普段の下校と変わらない。
ハルヒも古泉の住所までは把握していなかったので、帰り際職員室に寄って九組の担任を捕まえ尋ねたら、見舞いに行くならついでに、と結構な量のプリントを渡された。
金曜と今日、そして二連休中の分だろう。
流石特進クラスは頭の造りも違えば日々の鍛えられ方も違う。
駅の改札を抜けると、いつもとは逆方向の出口へ向かう。
俺の家までは駐輪場の自転車を使って更に距離があるが、古泉の家は駅から徒歩何分、の利便性の高い立地のようだった。
担任が親切にインターネット上からプリントアウトしてくれた周囲の地図には、目的地に蛍光ペンで印がしてあって、そこは駅前の通り沿いに立ち並ぶマンション群の一角を指している。
歩いていくばくもかからない場所で、俺は携帯を開いた。
とりあえず訪ねる前に連絡のひとつも入れておくべきだと思ったからだ。
また着信履歴から古泉の番号を選択して通話ボタンを押す。
8コールだ。8コールしか鳴らさんぞ。
8コールで出なかったらいないものと見做して即踵を返そう。
レポートには「古泉不在につき」と一行書いて提出してやる、などと思考を展開しているうちに呼出音が鳴り始める。
1コール。
2コール。
4コールまでは数えたが、残念ながら8までは行かなかった。
こういう自分ルールは往々にして裏目に出るものなんだ。
そんなの俺だけか?
update:07/10/31