一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。

何だって?と聞き返すと、ハルヒはつかみ掛からんばかりの勢いで俺のネクタイを引っ張り耳の側に顔を近づけると、同じ台詞を同じ音量で繰り返した。
そうされてようやく、耳に入った文節が聞き違いでないことを確認する。

転校?
古泉が?

「何言ってんだ、お前」

キンキンと痛む鼓膜を掌で押さえながら言うと、腕を組んで仁王立ちしているハルヒがどん、と乱暴に床を踏み鳴らす。

「何よその顔!いくら何でもジョークでこんなこと言わないわよ。ちゃんと九組担任を締め上げて吐かせた情報なんだからね!」

やっぱ締め上げたのか。
被害届が提出されなきゃいいがな。

「だって昨日会った時は何も言ってなかったぞ」

俺は一刻も早くシナプスを断ち切りたい汚点に自動分類された昨日の記憶を辿ってみた。
昨日の古泉は、確かに少し様子のおかしいところはあったといえばあったが、体調が悪いせいだろうと思う程度だったし、ましてや転校しますなどという重大告白なぞ匂わせもしていなかったのだ。
そんなに急遽決まるものでもなし、話が本当だと仮定するならあの時点で古泉が知らない筈がなく、俺に言わない理由もないだろう。
黙って消えるメリットが古泉にあるとは思えない。

「やっぱりお前の勘違いじゃないのか?」
「失礼ね。はっきり聞いたわよ。今朝連絡があったって、突然のことで担任も寝耳に水だったらしいけど」
そう話すハルヒの顔はいたって真面目だ。
ハルヒの背後におどおどとした様子で立ち尽くしている朝比奈さんに目を向けると、こぼれおちそうな瞳に涙を湛えたまま俺を見て小さく首を振った。どうやら未来人にも予想範囲外のイレギュラーな事態らしい。

九組担任がそんな誰も笑いそうにないジョークを仕掛ける理由もないだろうし。
だとしたら、…マジか?

「…アンタ昨日本当に古泉君の家に言ったんでしょうね」

なんだその目は。失礼な。
行くも行ったさ。お陰でまた人生の思い出したくない記憶のトップランキングが更新されたぞ。どうしてくれる。
そんな俺の心の声など当然露知らず、ハルヒは俺を半眼で睨みつけながら団長席に乱暴に腰掛けた。そして難事件に遭遇した探偵のように神妙な面持ちで、

「有り得ないわ。絶対。古泉君が黙ってまた転校だなんて。何か我がSOS団に対する陰謀の匂いがするわ!」

と宣った。
うちみたいな非公認のお茶飲みクラブに、何の得にもならない陰謀を企てる組織があるもんかね。
あったとしたら、そりゃうちより暇な団体だな。

「わからないわよ。もしかしたら謎の超能力者組織とか、怪しげなものに接触されたのかも知れないじゃない!優秀なサブリーダーをヘッドハンティングする腹積もりね!」

微妙なセンだがあながち外れていないところが末恐ろしい。

超能力者組織。

古泉がここへ転校して来たのはハルヒの監視役という機関の仕事の為だ。
古泉がここにいる理由がなくなるとしたら、ハルヒの力が消失するなりして世界へ影響が届かなくなることで監視の必要性が無くなった時だろう。もしくは。
いや、何よりハルヒの精神を揺さ振る要因の廃除に心を砕いていた奴が、こんな禍根を残すような消え方をするか?

思考をめぐらせていると、不意に土曜日の映画館が脳裏に浮かんだ。



『もしも、僕が…』



そう言った古泉はいつになく真剣だった。
まるで大事なことを切り出すような。

「……………」

急に硬直して押し黙った俺に、ハルヒが訝しげな目を向けてくる。

「ちょっと、キョン?」
「……悪い、今日は帰る」
「え?」

立ち上がるのと同時に俺は長机の上の鞄を引っつかむと、目を瞬かせるハルヒと朝比奈さんの脇をすり抜け部室のドアを開けた。
ハルヒが何事か喚いたが、一瞥もせず聞こえない振りをして足早に廊下へと抜ける。





行き先は決まっていた。








メランコリック・ブルー 15











いつもの改札を抜けると、昨日と同じく帰路とは反対方向の出口を目指す。
歩きながら携帯を操作してスピーカーを耳に押し当てると、暫くの呼出音のあと五度目に聞く同じ内容の事務的な音声ガイダンスが流れた。
古泉め。
電源を切ってやがる。

昨夜二度と通るまいと決めたルートを、まさか翌日には二日連続で通行する羽目になるとは思いもよらなかったことだ。
角を折れると五十メートルも行かないところに、目標のマンションが昨日と変わらないようすで鎮座している。俺は迷わずエントランスを抜け、エレベーターで階上を目指した。
同じ部屋の前に立つと、呼び鈴を押す。暫く待っても中からは、案の定何の返答もない。二度、三度と立て続けにボタンを押した。

「…………」

仕方ない。
許可なく他人の部屋に入るのは気が引けるんだが。
俺は内ポケットを探ると、昨日古泉から預かった部屋の鍵を取り出す。
ドアノブに差し込んで廻せば、カチリ、と音がして呆気なく鍵が開いた。





部屋の中は薄暗かった。

三和土に靴もない。しんと静まり返った廊下と、奥に続く開いたままのドアの向こうに見えているリビング。空気もどこか冷え切っていて、無人であることは明白だ。

「…古泉?」

一応声をかけながら上がり込む。
リビングは昨日、俺が出て行った時のままだった。
うそ寂しく整頓された部屋に持ち主の気配はなく、俺が壁に戻したハンガーに、出ていくとき形だけ畳んでソファにのせた毛布、コンビニのビニール袋。そして雑な走り書きのメモ用紙。そのままだ。
俺はメモをそっと指先で持ち上げた。
『招請が来たので行きます――』
短いたった三行のメモからは、何も今日の事態を予感させるようなファクターは読み取れない。
俺はため息を吐くと、床に視線を落とした。
ソファとローテーブルの隙間。
柔らかなカーペットの上、昨日確かにここで古泉は俺を抱いた。
あの憎たらしい余裕たっぷりのニヤケ顔で散々に俺を翻弄しながら。お陰でまだ腰が痛いと、鍵を突き返す折に厭味のひとつも吐き捨ててやろうと思っていたんだ。あの時は嫌で嫌でたまらなかったのに、今にして都合よくその体温が思い出される。
ここで待っていたら、古泉は帰ってくるだろうか。
希望的観測を覚える心のどこかで、それはないかもしれないと推測している自分がいた。複数に重なった想定外の要因がそうさせる。何があった?

ふと、わずかに開いたままの寝室のドアが目に入った。
昨日も出ていく前にも開いていた気もするが、身体がだるくてそれどころじゃなかったから定かではない。おそらくは俺が目覚める前に古泉が出ていった時、開け放して行ったのだろう。
ドアノブをそっと引くと、キィ、と蝶番が控えめな音を立てた。


暗く沈黙している寝室は、リビングと違ってかすかに古泉の匂いがする。
この部屋で毎日寝起きしているのだから当たり前なのに、何だかそんな些細なことで馬鹿らしいと思いつつも胸がさざめいた。
閉めきられたままの重い遮光カーテンに外の明かりを遮断された室内を見回す。
窓際に置かれた、シーツがわずかに乱れたままのベッドに、無造作に本やらファイルやらが積まれた背の高い本棚。ベッド向かいの机にはデスクトップPCが鎮座している。キーボードの上に無造作に書類らしきものが放り投げられているのが見てとれた。
あとは造り付けのクローゼットがあるだけの、簡素な部屋だ。
それでも、ここで古泉が眠ったり、書類を見たり、俺が自分の部屋でそうしているように、誰にも干渉を受けない一人の時間を過ごしているのだと思うと、それだけで側に古泉の気配を感じるような気がした。

いったいどこに行ったんだ。

急に不安が押し寄せてくる。
まず機関で何かあったことは間違いないだろう。
古泉がこんならしからぬアクションを起こすとしたら、まず機関絡みだ。
どんな問題が起きたのかは知り得る術もないが、もし何らかの理由で、古泉がハルヒの監視役でなくなったのだとしたら?
そうしたら、もう二度と奴は戻ってこないのだろうか。
北高での学生生活もSOS団も、古泉にとっては機関の任務前提で存在するものでしかないのだろうか。いや、そう考えるのが普通だ。機関の命令があれば、あいつはあいつの意思がどうあれそれに従うだろう。


古泉がいなくなる。


そう考えが到った瞬間、後頭部を鈍器で殴られたみたいな感覚が脳内に拡散した。








家に帰り着くと、俺はただいまも言わずに部屋へ向かった。
鞄を机の脇に放り投げ、ネクタイを外すとベッドのふちに座り込む。
急激な疲労を感じて大きく息をついた。
握りしめていた携帯を開くと、リダイヤル機能の一番上に表示されている古泉一樹を選択し、通話ボタンを押す。出ないだろうことはとっくに予想がついているので、とくに落胆もせず音声案内に切り替わると同時に通話を切った。
いったいどういう事態なんだ、と詰め寄りたい気持ちでいっぱいだったが、生憎詰め寄るべき人物はこのとおり連絡不能で、こうなると携帯メモリーに登録されている番号一本しか繋がりのない俺には他にどうしようもない。
機関の代表番号なんて電話帳で調べても出てこないだろうしな。

大仰に嘆息して短い髪をぐしゃぐしゃにかき上げていると、ノックのあと部屋のドアが開け放たれた。シャミセンを腕に従えた妹が入ってくる。

「キョンくん、おかえりぃ〜」
「おう」
「お母さんが『帰ってきたならただいまくらい言いなさい』だって」
「おう」

面倒臭くてやる気のない返事を返していると、妹が机の上を指差しながら、

「キョンくんにね、ゆうびん来てたからソコ置いといてあげたから!」

郵便?
机上に目をやると、やたら厚みのある封筒があった。
誰からだ。俺に手紙を寄越すような人間に思い当たる節なんぞないぞ。

「もうすぐご飯だからね〜」と言いながら出ていく妹に礼を言いつつ封筒を手に取る。
宛先であるここの住所と名前が書かれている表書きを裏返した。
目を見開く。


古泉からだ。


差出人が記入されるべき欄に住所は書かれておらず、フルネームで古泉一樹、と書かれているだけだった。
雑な字体で奴が書いたものだとすぐにわかる。

俺は逸る気持ちを抑えて、封筒の口を切った。

衝撃吸収用のエアクッションがついた封筒の中から出て来たのは、携帯電話だった。
よく見なくても見覚えがある。古泉が使っている携帯だ。
道理で何度かけても出ないわけだ。
掛けた番号の先は電源を切られて郵送ルートに乗せられた揚句、我が家の郵便受けに入れられていたんだから。
しかし、なんで古泉が俺に自分の携帯を送り付けてくるのか。
封筒の中身は携帯だけで、言付けのような類のものは入っていない。
益々訳がわからん。

試しに電源を入れてみる。
ローディング画面の後、ほどなく初期設定のままの待受画面と時刻が表示された。
何か手掛かりがないかと着信履歴やリダイヤルを見てみたが、全て履歴がクリアされていた。データを消去してから寄越したのか。
あわよくば機関に直接繋がりそうな番号が入っているかも知れないと思い至ってアドレス帳を開くと、こちらもやはり綺麗に登録が無くなっている。
たった一件だけ残っていたのは、


俺のデータだった。


「…………」

俺はぐっと眉をしかめて、馴染んだ番号にメールアドレスが表示された液晶を注視した。
なんで俺の登録だけ残してんだ。というか、これじゃ何の手掛かりにもなりはしないじゃないか。周到な奴め。

そうしたところで思い出した。
一番初めに部室で奴に押し倒された翌日、奴は脅迫材料に撮影した画像データを俺に送り付けて言った。


『ようするに、今まで通りSOS団員として接していただければ無問題です。そうして下されば、お送りした写真のデータは僕の携帯の中だけに留めておくとお約束します。勿論、必要なくなれば消去いたしますし、ご心配でしたら携帯ごとお渡しいたしましょう』



ファイルボックスを開くと、たったひとつだけサムネイルでそれとわかる画像があった。

「…………」

結局、散々調べ尽くした挙句ことごとくデータが抹消された古泉の携帯に残っていたのは、アドレス帳の俺の登録データと、奴に握られていた脅迫写真のデータ、そして、メールフォルダに一件残された、俺宛ての未送信メールだった。


ノンタイトルのままのメールの本文には一行、


『すみません』


それだけだ。

階下から妹が夕飯を知らせる声が聞こえてきたが、俺は微動だにすることもなく表示された五文字を見つめ続けた。

頭の奥が麻痺したように機能しない思考の端で、昨日の古泉がリプレイされる。
具合が悪くてしおらしくしたかと思えば、病人らしからぬいかがわしい行為は強制するわ、わけのわからないことを言い出すわ、散々だ。いつもおかしな発言ばかりする奴だから突出して変だとは感じなかったんだ。「冗談です」と微笑んだ顔も、いつもどおりで。
だから。




















『あなたが、好きなんです』






たとえそれが奴の本音だったとしても、
俺は気づけるはずがなかったんだ。








続きます



update:07/11/18