桜の季節





  1.



 櫻花屯は、五月を迎えようとしていた。

 凍っていた土が溶けて、その下で眠る草木が芽吹き始める季節。
 大地に鍬を入れ耕し、豊穣を願って種を撒く季節。

 そして、嫩紅の桜が咲く季節だった。





 いつかその男自身が言っていたように、此処はやはり男にとって『桜の季節に帰る家』なのだ。

 一彰は薄手のシャツ一枚でいることも忘れて、ぼんやりと夜の嫩紅に広がる桜の中に立ちすくんでいた。
 その視界の中には、散り散りに降り注いでいる淡い桜の花の下でこちらを見ている男があった。
 黒いジャケットを纏い、スラックスのポケットに無造作に手を突っ込んだ格好で、嫩紅のほとりでもひと際大きな枝振りの桜の下に立っている。
 強く風が吹くたびに一彰の白いシャツの裾や男の黒髪がなびき、地面に散らばった無数の花弁を巻き上げてはさらっていった。
 その様を、一彰はただ目を逸らせずに見つめている。
 シャツ越しにひんやりとした夜気が自分の熱を奪っていくのを感じたが、不思議と寒いとは思わなかった。
 話したいと思っていたことは山ほど溜まっていたはずなのに、いざ相手の顔を見ればそれらは全て消え失せたようで、一彰はただかける言葉が見つからず口を開けずに立っていた。
 そうして固まったままでいる一彰に向かい、男は凛然とした笑みをこぼすと、ゆっくりとこちらに向かって足を踏み出した。

 還って来た。

 激しい身震いが身体の芯から湧き出てくるのを止められず、男の顔が夜目にもはっきり見て取れるほど接近したところで、一彰はやっとなんとか男に笑みを返した。
 男の髪が再び風に流される。手を伸ばせば届く位置まで歩み寄り、男は口をひらいた。
 「ただいま」
 四ヶ月振りに聞くその声は、一斉に鳴る桜のざわざわとした枝擦れの音にかき消されそうなほど小さな呟きだったが、一彰の耳に届くには充分なものだった。
 一彰は表に出て十五分も立たないうちにすっかり冷え切ってしまった右手を、目の前の男に向かって伸ばした。
 そのまま、そっとその左胸の辺りに掌を合わせ、歓喜の隠し切れない声で言った。

 「お帰り、李歐」








 屯の中にある一彰と耕太の暮らすアパートまで、嫩紅のほとりから十分もかからなかった。
 十二時を過ぎようという夜半に、農道を通る人の影は全くない。
 決して広くはないアパートの部屋に戻ると、一彰が家を出る前と変わらない状態で耕太は眠りについていた。
 李歐は残念がりながらも、起こさないよう静かに枕元に胡坐をかき、そのあどけない寝顔を嬉しそうに覗き込んでいる。
 「お茶でも入れるよ」
 一彰は台所に向かい手を洗うと、やかんに水を注ぎコンロにかけた。
 しばらくすると、耕太の観察に満足したのか李歐が寝室から出てきた。音を立てないようそっと扉を閉め、椅子に腰掛けると食卓に頬杖をつき、一彰の背中に向かって話し始める。
 「耕太はちょっと見ない間に大きくなったな。身長も伸びた気がするし、顔も少し男の子っぽくなった」
 「この時期の子供の成長は早いからな」
 「ああ、たった四ヶ月なのに、不思議だ。なんだか自分が急に老けたような気分だな」
 その年寄りぶった発言が李歐には似合わなくて、一彰は思わず吹き出し、あははと短く笑い声を上げた。
 「仕事はどうだった?旨くいったのか?」
 「勿論。この四ヶ月間、ニューヨークからシンガポールまで文字通り飛び回ってもうくたくただ。あの特許技術を専売契約するのには手間も金もかかったが、これで種は蒔いたも同じ。三年後には金の実がなるさ」
 ビジネスの話となると、途端に李歐の目は子供のように輝く。
 単純に金儲けが好きなのかも知れないが、その余裕と自信に満ちた笑顔を見ていると、李歐という男は未だ自分には計り知れない器の持ち主なのだろうと妙に納得させられた。
 手慰みなのか、李歐はテーブルの天板の上に無数についている、耕太が工作中にカッターで引っかいて出来た傷を何度も指の腹で擦っている。そうしながら茶葉を急須に用意している一彰に向かって喋り続けた。
 「どうしてこっちにいるんだ?高台の家があるのに」
 「此処の方が作業場に近いから、朝便利なんだよ。幼稚園も近いし……耕太も、此処に友達がたくさんいて遊べるからこっちがいいんだって。だからアンタの留守中は大抵こっちにいる」
 しゅんしゅんと音を立て始めるやかんの横で、一彰は洗いかけだった食器に手を伸ばした。水道から水が滴る音と共に、食器同士が触れ合う微かな音が静かな部屋にやけに響く感じがする。
 「ちぇっ、何だか立場がないな、そういうのって」
 李歐がわざと拗ねたような声を出す。一彰は李歐に背を向けたまま、困ったように苦笑する息を漏らした。
 「そういうなよ。それに……、アンタがいないと広く感じるからな。……あの家も」
 「……………」
 李歐は天板を引っかいている手を止め、一彰の背中に視線を上げた。
 最後のグラスを脇の水切り台に置き、水道の蛇口を閉めると、濡れそぼった手を布巾で拭きつつ一彰が口を開く。
 「それより、飯は食ったのか?腹減ってるなら……」
 言いながら振り返ると、いつの間に席を立ったのか、李歐は音も立てず一彰のすぐ背後に立っていた。
 「うわっ」
 驚いた一彰が思わず仰け反ると、にやにやと唇を歪めた李歐が腰に手を廻してくる。
 反射的に後ずさると背中がシンクに当たり、逃げられずそのまま李歐の腕に巻き込まれた。
 「なんだよ、李歐。急に……」
 「一彰のそういうところが罪作りだ。無意識でそういうこと言うんだもの」
 くく、と抑えるように喉で嗤いながら、李歐が耳元で囁く。
 「なにが?」
 「嬉しかったってこと」
 説明になってない、と一彰が抗議しようとする間もなく、李歐の唇が首筋を辿り、背中に廻された掌がシャツをたくし上げ始める。冷たい手指が直接素肌に触れて、一彰はひゃっ、と息を飲むような声を上げた。
 「ちょっ……李歐!」
 制止も聞かず、李歐の腕が更にきつく抱きしめてくる。しばらく振りの李歐の匂いと暖かな体温に包まれて、一彰は微かな眩暈を覚えながらもなんとか李歐の身体を押しやり、強引に引き剥がすと「耕太が起きる」とだけ小声で吐き捨てた。
 「平気だろ」
 「じゃない!アンタの家と違って壁薄いんだから」
 そうこうしているうちにコンロのやかんが沸騰して、けたたましい音を立て始めた。
 一彰ははっとして未練がましく腰に廻されたままの李歐の腕を払うと、慌ててコンロの火を消した。
 ようやくやかんの音が止むと、ふうと軽いため息をつき、李歐を振り返る。
 「な、李歐。今日は悪いけど……」
 言い終わるのを待たずに李歐は一彰の手首を掴むと、玄関の方へ向かって半ば一彰の身体を引きずるように進み出した。
 「!?」
 突然始まった李歐の行動に一彰は混乱し、されるがままに手を引かれる方向へと足をもつれさせる。
 「り、李歐!いったい何……」
 玄関のドアまで行き着くと、李歐は何が何だかわからない、といった表情の一彰を扉に押し付け、強引に唇を一彰のそれに重ねる。
 「ん……!」
 抵抗しようと考える間もなく、李歐の舌が口腔内に侵入してきた。
 歯列を辿るように蠢き、すぐに一彰の舌を絡めとると強く吸い上げる。
 息もつけないような手慣れた李歐の接吻に、途端身体を恍惚とした痺れが走りぬけて一彰は思わず掴んだ李歐の肩に力を込めた。  「…………っは…」
 ちゅっと小さく音を立てて李歐は唇をはなすと、事態が飲み込めていない一彰の顔を覗き込むようにして悪戯っぽく笑うと、玄関脇の棚に放り出してあった、小さなキーホルダーのついた扉の鍵を手にとる。
 「場所が駄目だというならそんなのは問題じゃない。ぼくらには立派な家があるんだから、そっちに移動するなら一彰も文句ないだろ?」
 一彰ははあ?と素っ頓狂な声を上げて、半ば呆れ顔で李歐を見つめた。
 「耕太を置いて行けるわけないだろう!」
 「念のため置手紙をしておいて、夜が明ける前には戻ってくればいい」
 そう言いながら李歐は一彰をドアの前からどかすと、内側から掛けていた錠をはずした。扉を押しやると、少し立て付けの悪い戸がギイ、と軋んだ音を立てて開く。その瞬間、冷たく湿った空気が嫩紅から運んできた桜の匂いとともに家の中へ吹き込んだ。
 月明かりが、李歐の白く美しい顔を際立たせるように降りそそいでいる。
 桜の妖気にも似た、不思議な色気のあるその笑みは、男の目から観てもぞくりとくるものがあった。
 一彰は半ば見惚れているようにその様から目を逸らせないでいる自分に気がつき、少しばかりの悔しさと諦めの入り混じった大きなため息を吐いて苦笑した。
 「全く……」

  「アンタの我侭には負けるよ、李歐」





放置プレイすみません… OTL