下校編





 「雨だね…」


 独りごちるように呟くと、それに同意するかのように、
 先生はワイパーのスイッチを入れた。

 車体にぶつかる雨粒は、点を描く程度だったものが、徐々に強さを増し、あっという間にフロントガラスを膜を張るように濡らしていく。


 10分まえ、学校を出たときには降っていなかったのに。
 たしか午後からは雨だって天気予報で云ってたっけ。


 窓から外に目をやると、ガードレール脇の歩道にちらほらと、色とりどりの傘が咲きはじめている。鮮やかなはずの赤も青も、雨気をふくんだ空気には濁ってみえ、寂しげな景色とともに流れて消えた。
 錆色の空とともに、濡れた灰色のアスファルトと街並み。


 50m先の信号が、黄に変わり、赤になった。


 スピードが緩まる。
 藍の乗用車の後ろに、滑り込ませるようにして車体が止まった。

 ふと、窓から反対の、運転席に視線を動かす。
 ハンドルに手を添えたまま、すこしだけ首を傾がせて前方を見ている先生の横顔。
 教壇で見る先生とも、化学準備室で見る先生とも、どこか違った感じがする。

 いったい、この人はいくつ顔を持っているんだろう。


 僕の視線に気づいたのか、先生もこちらを向いた。

 「なんですか?」

 「いや、大人だなぁと思って」

 先生の頬がかすかに緩む。笑うとやっぱり幼くなる。

 「車の運転くらい、あと二年もすれば夜神くんもできるようになりますよ」

 「そうじゃなくって…、なんとなく」


 そう云いあぐねた途中で、信号が、青に変わった。


 前の車が発進したところで、先生もアクセルを踏みこむ。
 再び景色が流れはじめ、三方のガラスを伝う雨粒が風圧で弾かれ横に飛ばされていく。

 また雨脚が強まった。

 絶え間なく、ボディを叩く水音と、アスファルトの水を切るタイヤの音。
 CDをかけるでもない車内には、それらがよく聞こえる。


 またフロントガラスの向こうを見ている先生の横顔に、視線をよこす。


 「どうしても だめ?」


 先生の瞳が、わずかに僕の方に揺らいで
 また前に戻った。


 「どうしても だめです」


 にべもない返答。
 さっきからずっと、このやりとりの繰り返しだ。

 先生が視線は動かさないまま眉をしかめる。この顔は教師の顔だ。


 「月曜からテストなんですよ。土日、遊んでる場合じゃないでしょう」

 「別に、今更することもないし」


 これは本当だ。
 厭味に聞こえるかもしれないが、実際テスト前になってあわてて復習する、などどいうこととは僕は無縁だった。

 先生もそれはわかっているらしい。


 「ほ、他の教科はそうかもしれませんが、化学に関しては毎回、決してそんなに褒められる成績ではありませんよ」

 「まあね」


 それはそうだろう。


 だってわざとだし。


 化学に関してだけは、僕は平均よりちょっと上、大体70点程度の点数を保っていた。
 それというのもすべては先生との時間のため。
 毎回100点近い優秀な成績の生徒が、毎日毎日"わからないところを先生に質問しに行く"なんていうのは、どうみたっておかしいから。
 友人には「お前にニガテなものがあったなんて」と目を丸くされていたが、これでも毎回苦労してるんだ。いろいろと不自然でない成績をとるために。


 「だから、先生のウチで化学、教えてって云ってるのに」


 わざとらしくため息を吐きながら呟くと、先生の顔がすこし赤くなった。
 教えてもらうことが、化学だけでないだろうことを悟れるくらいにはなったらしい。
 これ以上やると、運転が危ないかもしれない。


 「テ、テスト前に特定の生徒を家に上げるなんて、どんな噂がたつかもわからないじゃないですか」

 「じゃあ、テスト前じゃなかったらいいんだ?」

 「!!」


 がくんと、車体が大きく揺れた。
 わずかに横にそれた車体をあわてて軌道修正し、先生がハンドルを握りなおす。


 「と、とにかく! 今日はだめです!
 寄り道しないでまっすぐ帰ってください」

 「ちぇ」

 云ったっきり、先生は前をむいて黙った。
 こうなれば先生は、押しても引いても、てこでも意思を動かさない。
 ほかならぬ、恋人の頼みだって云うのに…


 ふたつ目の十字路にさしかかる。
 そこを曲がれば、僕の家までもう10分もかからない。

 週末の二日、ずっと先生と 逢えない。
 雨はますますひどくなるばかりだ。

 僕はまたため息をついた。




 「先生の、ケチ」








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