黒いバイクが、轟音を立てて車道脇をすり抜けるように追い越していく。
 ぼやけた視界の中、滲んだその影が交差点を直進していったところで信号が
 赤に変わった。


 ここから右に折れると、僕の家。


 縦列した二・三台の列が近づき、先生はゆっくりとアクセルを緩めた。
 空の右折車線に入ろうと、ウィンカーを出そうとしたところを制止する。




 「真っ直ぐ行って」



 「え…」


 とっさのことで驚いたのか、先生が、聞き返すような声をあげる。
 突然の僕の注文に車線変更し損ね、そのまま信号待ちの列の最後尾に車は停止した。


 「どうしたんですか?」

 視線だけをこちらに向けて、前方を気にしながら先生が訊ねてくる。
 その顔にほんのすこし意地の悪い微笑を向けると、僕は言葉を継いだ。


 「先生とデートしようと思って。
 いいでしょ、この週末は大人しく諦めるんだから」


 黒い目が、前髪の隙間でわずかに見開かれる。
 そしてまた先生は、眉を顰めて苦々しげな表情を形づくってみせた。


 「寄り道は…」

 「先生の車の中は、寄り道じゃないよね?」

 「……………」


 信号が青に変わる。
 雨に濡れそぼった寂しげなアスファルトに、青緑のランプが照りかえる。
 前に並んだ乗用車が発進するのにつられるようにして、先生も再びアクセルを踏んだ。
 その横顔が、いつものように苦笑する。





 「ああ云えば、こう云うんですから」













 重苦しい雨の気配に、廃墟のような佇まいをみせる街並みを抜ける。
 歩道橋の影が一瞬上を走り去り、尚も止まない雨がフロントガラスに踊っては弾け、吹き飛んでいく。
 ワイパーがリズムを刻んで行き来する中、前方に目をやれば、二車線の進行方向を垂直に、横切るように流れる河川に架かった立橋がみえてきた。


 同じように前を向いたままの先生が、
 声だけを、こちらに向ける。


 「夜神くんは、存外気まぐれなところがありますよね」

 「それって褒め言葉?」

 「どうでしょう」


 曖昧に、ちいさな含み笑いをもらす。
 視界の端で、薄い肩がすこし 揺れた。


 「気まぐれというか…。先生と一緒に居たいだけだよ。
 一分でも 長く」

 「………………そういう、恥ずかしい台詞平気で云えるのもすごいです」

 「恥ずかしくないよ。先生が好きだから」


 それっきり、先生は押し黙る。
 見なくても顔が赤くなっているだろうことは容易に想像がつく。


 わずかに速度が緩みはじめると、橋の手前の信号が、赤から青に変わる。
 今度は足止めされることもなく、すんなりと車は直進した。
 短い川の横幅分、橋を渡り終えようというところで先生が、右のウィンカーを出す。
 ハンドルを切ると、車体が緩やかに左に振られ、そのまま河川脇の細い路へなめらかに入り込んだ。

 大通りを抜けるだけで、途端に雑音がちいさくなる。
 他の車のエンジン音や喧騒がなくなると、雨音がさらに強調され狭い車内にこだまして聞こえた。


 渇灰色に濁り嵩の増した水流を左手にみながらすこしだけ、
 先生はスピードを落とす。


 「雨、止まないね」


 サイドウインドウを次々に伝い落ち模様を描く水滴の向こうで、細い、絹糸のような雨が切れ目なく降りそそぎ視界をぼやかす。
 そう遠くない対岸の、立ち並ぶ背の高いマンション群は濃い灰色に滲んで、どこかうそ寒そうにみえた。


 「夜半過ぎまでは降るそうですよ」


 河川敷沿いに走る遊歩道脇に、等間隔にならぶ植林が窓の外を走り去っていく。
 弱まらない雨脚の中、人気のない脇路。これを過ぎると、右手に官寮舎が見えてくる。


 「止まなければいいのにね」

 「え?」


 歩道がとぎれ、路はわずかに河川を離れる。
 代わりに鉄色のフェンスが脇に続き、向かいに長い寮舎の塀が走りはじめた。




 そろそろいいか。




 「止めて」


 「……………?」

 僕の言葉に、先生は一瞬怪訝そうな表情をしながらも、緩やかにブレーキを踏んだ。
 すべるようにしてすうっと、車体が路肩に止まる。


 「夜神くん?」


 先生がこちらを向くのと殆ど同時に、僕はシートベルトを外し、
 助手席から身を乗り出していた。

 運転席のシートの肩口に手をつき、横から先生に覆いかぶさるように身を伸ばすと、左手でキーを廻し、エンジンを切る。


 途端、ボリュームを上げたかのように音量を増した雨音が、
 しずまりかえった車内を満たした。




 至近距離で視線が合わさる。



 


 「やが………」




 先生がもう一度、僕の名前を呼ぶまえに僕は、
 そっとそのくちびるを塞いでいた。


 「……っ、……………」


 一瞬、先生の身体がぴくんと強張る。
 不意の行動に、圧し掛かった僕の肩を押し返そうとした手は、吸いつくようにくちびるを押しつけたところで抵抗が抜け、ただ添えられているだけに止まった。

 左手を、エンジンキーからサイドウインドウの淵にかける。
 先生がじっとしているのをいいことに、僕は両腕で上体を支えると、角度を変え、なおも深くくちびるを重ね合わせた。
 

 「…ん、……」


 苦しげに、先生の喉がほそく鳴る。
 ぎゅっとジャケットを握りしめてきたのを合図に、すこしだけ顔を離すと、同時に、薄くひらいたままのくちびるから熱をはらんだ吐息がこぼれた。

 「は……」

 シートに身体を預け、赤い顔で息を吐く。
 長く呼吸を塞がれたためか、眦に涙がうかんでいる。
 それをちゅっと吸いつき舐めとると、すべらかな頬を伝い耳朶にくちびるをよせ、

 かすめるようにして囁いた。





 「したい。先生」








next→