「十五分だけ。十五分たったら起こして」


 ノックも挨拶もなしにドアを開け入って来たかと思うと、こちらを一瞥することもなく真っ直ぐにベッドに向かいながらその生徒は云った。
 一瞬何ごとか把握できず、竜崎はデスクに向かった姿勢のままぼんやりとその横姿を眺めていたが、白いカーテンを勝手に開き、中に押し入っていったことでようやくその生徒の無体に気がついた。

 「なんですか、いきなり」

 椅子から立ち上がり、書類の上に持っていたボールペンを投げ置く。
 時間的には五限が始まって幾許もない。たまにここへやって来る、所謂サボり。
 仮病や建て前をならべるならまだ可愛げもあろうが、こんな横柄なやり口は初めてだ。
 竜崎の言葉が聞こえていないかのように、制服の後ろ姿は振り返りもせず清潔そうに真っ白いベッドシーツを剥がし、内側からカーテンを閉めた。

 「室内に入ってくるときは、きちんと挨拶くらいしなさい。それに」

 歩みよりながら尖らせた声をかける。返事は無い。
 裸足に履いたビニール製のスリッパが、歩くたび床に擦れてぺたぺたと足音をたてた。
 ベッドの横に立つと、軽薄な音を立てて閉められたカーテンを再び開く。

 「保健室は休憩場所ではありませんよ」

 ずうずうしくも布団の中にもぐりこんで寝の体勢に入っていたその生徒は、しばらく背を向けたまま反応を返さなかったが、竜崎がカーテンを引いたまま動かないでいると、さも面倒くさそうな動作で顔だけをこちらへ向けた。
 飴のような薄茶の髪が流れる。
 その下にみえる整った顔立ちでようやく竜崎は、この無体をはたらいている生徒がかの有名人であることに気がついた。

 夜神 月。

 実際近くで見るのは初めてだった。
 学校一の秀才と名高い生徒も、所詮はこんな程度かと軽い失望をおぼえつつも、竜崎は教師らしく、馴れ馴れしくも、突き放すでもない調子で言葉を続けた。

 「わかったらさっさと起きてください。ベッドは病人の為のものです」

 月は端整な顔をさも眠そうに歪めながら、半分落ちかかった瞼で竜崎を見た。
 色素の薄い榛色の瞳を動かし、目の端だけで竜崎の姿を捉える。誰がやれば不躾としかとれないようなその仕草も、これだけ整った顔なら不思議とさまになってみえる。
 ようやく月は、だるそうに重い口を開いた。

 「気分が悪くて」

 「充分健康そうに見えますが」

 「あんた 誰?」

 全く口の利き方を知らないようなその物言いに、竜崎は閉口する。
 閉口して、大きくひそやかにため息をついた。

 「仮にも教師に向かってあんた呼ばわりはないでしょう。保健医ですよ、新任の。見てわかりませんか?」

 着ている白衣を示すように裾を払い、脇腹を手のひらで擦る。
 月は何度か目をしばたたかせたあと、僅かに秀麗な眉間に皺を寄せた。

 「橘先生は?」

 「産休でお休みです」

 「…………」

 「全校集会で、話があったと思いますけど。私のことも含め」

 「そんなの、めんどくさくて覚えてられない」

 「……………」

 しばらく間を置いて考え込んだ様子をみせたあと、突然糸が切れたようにシーツの上に脱力し、月は後頭部を枕にうずめて、仰向けになった。

 「こら、起きなさい」

 あとはもう興味がないと云わんばかりに、再び寝に入った月の肩を揺り動かす。
 面倒くさいものを追い払うかのようにお座成りに手を払う月に、さすがの竜崎もかすかな苛立ちをおぼえ、すっかり顔までもぐりこませてしまった上掛けを掴むと、一気に腰のあたりまで捲りあげた。
 どこまで厚顔にできているのか、そうまでしても月はまだ目を閉じたままでいる。

 「担任の先生に通報されたいですか? 夜神くん」

 すこし節のたった綺麗な長い指が持ち上がり、瞼の上を無造作にこすった。
 さらさらと柔らかそうな髪がなだれる下で、睫毛がなんどか上下に瞬く。

 「なんで名前、知ってんの」

 喉につっかかるような、歯切れの悪い眠そうな声。

 「有名人ですから」

 ふうん、と、納得したのかしていないのか判別つき難い返事を返しながら、月はのろのろと上体をシーツの上に起き上がらせた。鬱陶しそうに前髪を指先で払いながら、上機嫌とは云い得ないような表情で竜崎を見る。
 ベッドに座っている月とは高低差があるため、自然とその顔を見下ろすかたちになる。目を逸らすことなく竜崎は、月を真正面からとらえた。視線が交じり合う。
 形のいいくちびるが、笑みの形に吊り上げられた。
 端整な容貌には非の打ちどころ無く美しい微笑。感心しながらも、どこか薄情そうな印象にみえるな、と竜崎は思った。勿論、おくびも顔には出さない。

 「まあ いいや」

 短く息を吐きながら呟くと、月は、また何の興味も伺えない無感動な表情で足を下ろし、床に脱ぎ捨ててあった上履きに爪先を引っかけるとすんなり立ち上がった。
 並ぶと、身長はそう変わらない。

 「煩いから、今日はもう帰ろうかな」

 独り言のように吐き捨てながら、竜崎の存在など取るに足らないとでも云うような、ぞんざいな態度でさっさと出入り口の方へと進み出す。

 「夜神くん!」

 心持ち、咎めるように声を荒げさせる。竜崎を振り返りもせずに歩きながらネクタイを直し、適当に身繕いすると、眠そうな欠伸をひとつして、月は白いスライド式の扉に手を掛けた。


 「じゃあまたね、"竜崎センセイ"」


 一瞬視線を投げてよこす。
 横柄に笑んでみせると、そのまま後ろ手にドアを閉める。

 「ちゃんと授業に出るんですよ」

 付け足すように放った言葉を最後まで聞いたか否か、ドアは元のとおりに閉じられた。
 擦りガラスの向こうに、校舎の表玄関の方向へ後ろ姿の影が流れて消える。
 そのさまを、竜崎は半ば茫然と見送っていた。

 あれが夜神 月。

 礼儀正しく品行方正、絵に描いたように真面目で優秀な優等生。話に聞いていた他の教師陣の評判や生徒たちの噂には、まったくと云っていいほど当てはまっていない。
 それに、


 「自分だって、私のこと知ってたんじゃないですか…」


 閉まったドアを見つめながら恨めしそうにちいさく呟くと、竜崎は、静まりかえった白い部屋の中で、誰に気兼ねするでもなく大きく、ため息をついた。








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