切っ掛けは、よく保健室へと遊びに来る女子生徒の口の端だった。

 高校生という多感な年代の彼女らには、いろいろと抱えた問題やストレスもあるのだろう、誰ともなく、ちょくちょく私の元にやって来ては愚痴を聞かされることがあった。
 それも職務の範疇であり、話を聞き、同調し、時には励まし慰める。

 そうやって、今日もいつも通りにデスクに向かい作業しながら、やって来た生徒の話に耳を傾けていたが、その対話の中に、聞きなれた或る人物の名前が出てきたところで手が止まった。

 「え?」

 顔を上げ思わず聞き返す。
 少女は逡巡したあと辺りを窺うように視線を泳がせ、一段とか細くなった声で「誰にも内緒にしてね」と前置きした。

















 「感心しませんね」

 金曜の五限。今日もまたやって来るなりベッドを占拠しようとする月を押し留め、長テーブルの前に座らせると、竜崎は常にない険悪な表情で月に相対した。

 「なにが?」

 相変わらずの、相手をするのも面倒くさいと云わんばかりの無気力な様子で、目を細めながら月は向かいに座った竜崎を見やる。どうしてそんなにいつも眠たそうにしているのか竜崎には謎だったが、言及すべき事由は今日は他にある。

 「あなたのことで、よくない話を聞きました」

 「は?」

 片眉を顰めながら月が聞き返す。竜崎が黙ったままその整った顔をみつめていると、月はしばらく考え起こす仕草を見せたあと徐に口を開いた。

 「もしかしてミサのこと?」

 「…そうです」

 竜崎の返答に面食らったように一瞬目を見開いたあと、不機嫌そうな表情が見る間に緩む。くちびるを吊り上げ歪めたかと思うと、月は声を立てて笑い出した。

 「脅かさないでよ、先生。よくないなんて云うから、もっと悪い話かと思った」

 少女の口から出た内緒の話。
 それはよくある恋愛話で、夜神 月に交際を迫ったが相手にされなかったといった内容だった。ただそれだけならとるに足ることも無い。何も首を突っ込むようなことはしなかったろう。問題はその経緯だ。

 「充分悪いですよ。あなたが女性を傷つけるようなことが平気で出来る人だとは思いませんでした」

 月の悪びれもしない、あけすけな態度に少なからず反感を覚えたのか、竜崎にしては珍しく口調に不快感か滲み出る。真っ直ぐに月を見据えながら、失望したような声で告げると、月は笑みを薄らがせて目の端で竜崎を見た。
 横柄な態度で腕を身体の前で組み、体重を背凭れに預ける。パイプ椅子が、ぎしりと鈍い金属音を立てて軋んだ。

 「どうして?付き合えないから付き合えないって云っただけだ。
 それっていけない?」

 「そうではありません」

 強い引力をもった眼差し。
 視線が交じり合うと、途端、射すくめられたように竜崎は口ごもった。なんの感慨もない、無機質なまでの視線は、物怖じすることを知らない竜崎をもたじろがせるには充分な冷たさを湛えている。底冷えするような、温度のない双眸。

 わからない。

 非の打ちどころのない柔和で穏やかな優等生の顔の一方で、裏を返せばこんなにも冷淡な表情をみせる落差。それがどこから来るものなのか。どちらが本当なのか。

 「ああ…もしかして」

 月はそんな竜崎の心のうちの動揺を見透かしているかのように、息だけで嘲笑した。


 「抱いたこと云ってんの?」


 「!」

 あからさまな月の物言いに、思わず狼狽が隠し切れず顔に出る。
 そんな竜崎の顔をつまらなそうに睥睨しながら、月はため息混じりに吐き捨てた。
 
 「いいじゃない。別に強姦したわけじゃなし」

 「そ、そういうことを云っているんじゃありません!まだ高校生だからなどと野暮なことを云うつもりはありませんが、交際しているわけでもない相手と、そんな…!」

 「先生は、女抱いたことあるの?」

 「は…?」

 黒淵の瞳がわずかに見開かれる。
 とっさの質問に、意味が飲みこめないと云った様子で目をしばたたかせている竜崎に、月は平然と訊き直した。

 「セックスしたことあるのかって聞いてんの」

 「な…」

 ようやく月の云わんとしていることを理解し、かあっと竜崎の頬に朱が走る。
 答えられるはずもない。云いあぐねて思わず視線をさ迷わせると、それを見て取った月は、にやにやと微笑みながらテーブルに片肘をつき身を乗り出した。

 「先生23だっけ?まさか一度もないなんて云わないよね?」

 明らかに声が面白がっている。

 「は、話をすり替えないでください!」

 顔を赤くしたまま遮るように竜崎が声を荒げると、月はまた直ぐもとの無愛想に戻った。
 ふたたび椅子に体重を預けると腕を組みなおす。

 「文句云われる筋合いはないよ。『抱いて欲しい』って云われたから抱いただけだ。うんと優しくしてやったし、向こうだって悦んでた」

 「夜神くん!」

 「あの女にしたってそうだ」

 「え…?」

 一瞬わずかな違和感を覚え聞き返す。同時に、月が椅子から立ち上がった。
 自然と竜崎は、テーブルの向かいに居る月の顔を見上げるかたちになる。

 くちびるだけで、月はいつもの通り完璧に整った微笑を浮かべた。



 「どんなふうにして抱いたか、教えてあげようか? 先生」








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