「……は…」

 台詞の意図が読めず、ぼう然と月の顔を見上げる。
 竜崎が間の抜けた表情で何ら反応を返せずにいる間にも、月はさっさとテーブルを廻り込んで向かいに座っている竜崎の横に立った。

 「や、夜神く…?」

 腕を掴まれたかと思うと、無造作に引っ張られる。強引に引き上げられるようにして竜崎はその場に立ち上がった。反動で足が当たり、物々しい音を立てて椅子が倒れる。

 「痛…」

 眉を顰め、乱暴なやり方に抗議しようと口を開く間もなくまた月が腕を強く引いた。
 無言のまま一番窓際のベッドまで強引に引きずられ、そのまま白いカーテンの奥へ放り込まれる。

 「何するんです」

 内側からカーテンを閉めなおす月の背中を睨みながら云うと、月がこちらを向き直った。
 相変わらずの内情を読み取れない表情。きれいな笑みを浮かべているのに、それはどこかぞっとするような怜悧な力がある。
 危険だ。
 得体の知れない不安に駆られ、無意識に、竜崎は身体をわずかに退けた。

 「云ったじゃない。『どうやって抱いたか教えてあげようか』」

 愉しそうに薄ら笑いながら月がゆっくりと、竜崎に近づく。二メートルも離れていない間で、竜崎が少し下がるたびに月が一歩近づくので、両者の隙間は離れるどころか徐々に縮まってゆく。月から目をそらせないまま下がりながら、竜崎は、壁に背中がついたことでそれ以上行き場が無いことに気がついた。

 「夜神くんの云っていることがわかりません」

 「わからない?」

 「ええ。わかりかねます。つまらない冗談はやめてください」

 努めて平静な声をつくる。「まだ話は終わってません」とカーテンの外へ出ようと月の脇をすり抜ける瞬間、また肩を掴まれた。はっとして身を強張らせる間もなく視界がぶれたかと思うと、次の瞬間には月の微笑に見下ろされていた。
 カーテンに囲まれた四角い天井が目に入り、自分の身体がベッドに押さえつけられていることを知る。

 「は…離してください」

 幾分か上擦った声が出て驚いた。
 押さえ込まれた両手首は、力を入れてみてもびくともしない。

 「嫌だね」

 手首を引き上げ、頭上でひと括りに片手で押さえ込むと、月は空いた片手で器用にネクタイをほどき始めた。腕一本になっても拘束する力は緩まらない。やや細すぎるきらいのある身体のどこにこんな馬鹿力があるのかと閉口しつつも、徐々に竜崎は焦り始めた。
 このままではまずい。

 「こういう冗談は好きではありません」

 「奇遇だね、僕もだ」

 「なら何で…!」

 覆い被さった月の身体がわずかに倒れこむ。
 反射的に目をつぶると、薄茶色の髪がさらりと頬を掠めた。

 「先生が、知りたそうな顔してたから」

 耳もとで、くちびるの感触が想像できるほどの至近距離で囁かれ、思わずびくんと背筋がふるえる。白衣越しに感じる他人の体温。圧し掛かった月の身体の重みに、恐怖にも似た言い知れぬ感情を覚える。

 「馬鹿なこと…」

 「黙っててよ」

 押さえ込まれた手首に、ほどいたネクタイが通される。

 「夜神くん!!」

 なにを、と声をあげる間もなく、両方の手首同士が布で縛められた。月の手が離れてもぎっちりと結わえられた其れは、まったく自由にならない。
 動悸が早まる。呼吸が知らず浅く潜まって息苦しさを感じた。

 冗談ではすまない。

 云うべき台詞は喉の奥で詰まって言葉にならず、信じられない思いで月を見上げる。幾許もない距離で視線が合った月は、竜崎の反応をいちいち愉しんでいるかのようににやにやと嗤っている。

 するりと、長くきれいな指が優しげに竜崎の頬を辿った。


 「大人しくしててよ、先生。あんまり抵抗すると、
 酷くしたくなっちゃうかもよ」









 

 抱きすくめられ、知らない手指が肌に這い始め竜崎は声を上げた。

 見開いた目の端に映る月は、上辺の笑みを浮かべながら眉ひとつ動かさず自分を見ている。底の見えない深淵に流され、抗うこともままならないまま徐々に奪われる理性の片隅で、竜崎は茫然と思った。


 今まで私が見ていた彼は、彼の正体のほんの一端に過ぎなかったのだ。
 その実私は、まだ彼の何をも知らずにいたのだ。








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