竜崎先生が四月に赴任してきて早半年。

 高校二年に進級した僕のクラスの化学担当兼副担任は、この春新卒で採用されたばかりの新米教師で、東応大学卒のエリートだった。
 長めの黒髪を無造作に伸ばし、下から人を見透かすような視線を向けてくる猫背の男。
 変わりものだ、というのがはじめて会ったときの率直な印象だ。
 しかし実際に話してみれば意外なことに、見た目とはうらはらに礼儀正しく敬語で喋るし、話術にも長けていて、何よりも博識であった。
 教師としても充分に有能で、授業もわかりやすく、質問すれば細かく丁寧に答えてくれるし、教科書にないようなことでも聞いてみれば僕の知らない知識が次々とその口から滑り出てくる。
 僕はいつしか知的好奇心から、先生の根城である化学準備室に暇さえあれば入り浸り、先生の静かなよどみない声が紡ぐ、僕がまだ知らない世界を持つその言葉を待つようになった。
 穏やかに笑い、表情を変え、ときおりこちらがはっとするほど子供じみた仕草をみせるアンバランスな性質と精緻な構造。
 熱心な生徒を演じて先生と接していくうちに、だんだんと僕の興味は先生の比類なき頭脳から先生自身へと移っていった。
 いつも細い痩せた身体を白衣に包んで背中を丸め、姿勢悪くポケットに手を突っ込んでぺたぺたと歩くその姿を校内で見かけるたびに、何故だかどうしようもなくそれを目で追ってしまうことに気づくのにもそう時間はかからず、それからその恋とよべる気持ちがいつしか情慾を帯びていくのにも時間はかからなかった。

 そんな思いを秘め続けて四ヶ月目。
 とうとう気持ちを持て余した僕は、意を決してそれを口に出した。

 「先生のことが好きなんだ」

 放課後、いつものように授業で行った実験の後片付けを手伝っている時に、大真面目な顔ではっきりとそう伝えた。
 それを聞いた先生は洗い終わった試験管を持ったまま、しばらく面食らったようにきょとんとした表情をしていたが、やがて口の端をゆるめて微笑むと「私もです」と嬉しそうに言った。
 「夜神くんみたいな向学心のある生徒は大好きですよ」
 その言葉を聞いて、僕は思わず持っていた溶液の入ったままのビーカーを取り落としそうになるほどの脱力感をおぼえた。
 そのまま流し台に中身を零しそうになる僕を先生が慌てて制止する。
 「駄目ですよ、夜神くん。それは劇薬指定ですから水道に流しては駄目です。こっちのバケツに捨ててください」
 「…………先生」
 「はい?」
 小首を傾げてみせる先生に恨めしそうな視線を浴びせると、自然に低くなる声で呟いた。
 「僕の言葉の意味、分かって言ってる?」
 先生が視線を仰がせながら、質問の意図が汲めていないといわんばかりに頭を掻いてみせる。
 「……えっと、好きって話、ですよね…?」
 「………………」
 「……夜神くん?」

 僕は痛むこめかみを指で揉み解した。



 好きになってみてそれを伝えようとして初めて、明晰な頭脳の持ち主である先生が想像以上に色恋沙汰には疎くて、人に気持ちを読み取ることに鈍いことを知ったというのは皮肉な話である。
 それ以来、ことあるごとに僕はめげずに先生に「好きだ」と告げ続けたが、そのたびに先生は笑ってはぐらかすか、困ったように苦笑するかのどちらかだった。

 そうこう足踏みをしているうちにあっという間に二ヶ月もの期間が過ぎた。
 こういう経過を辿って現在に至ることを考えれば、暖簾に腕押しな態度を取り続ける先生に対して、僕がいよいよこうして実力行使に踏み切ったのは無理からぬことである。
 



 下校時刻もとうに過ぎた午後六時。
 うっすらと紫に翳った空が夜の帳をおろしはじめ、窓の外からは部活動で残っている生徒のまばらな声以外なにも聞こえてこない。
 沈殿していく空気が化学室の蛍光灯から降り注いでくるような重たい沈黙の中、先生はただ顔をうつかせて、指先でなんどもたしかめるように唇を撫でていた。
 本当に、こういうふとした無意識の仕草がひどく子供じみてみえる。
 僕は壁際にへたりこんだままの先生の前に尻をつけて座り、そのまま床の上に直に胡坐をかいた。
 そうして顔を上げようとしない先生を覗き込むように姿勢を変えると、先生がわずかに肩を縮めてみせた。
 「嫌だった?」
 「え……?」
 不意の問いかけに、髪の隙間から視線だけを上げて寄越す。
 「僕にキス、されたの」
 そう云って唇にあてられている手を指差すと、そうされて初めて気がついたかのように先生は慌てて手を引っ込めた。
 「イヤだった?」
 もう一度同じ質問を繰り返すと、先生は再び僕から視線をそらして口ごもった。
 「…嫌…って……」
 はっきりとした答えを返してくることも無く、そのままその唇が閉じられる。
 わずかに唾液で濡れ、指先で弄んでいたことで仄赤く色をつけたようなくちびる。
 僕は胸のうちを微かにさざめかせてそれを見つめた。
 先生は其処になにか興味の対象があるかのように、一点に目線を張りつかせたまま動かさない。
 その視線を目で追うようにして辿ると、なんの変哲も無い緑色のリノリウムの床に向かい合った僕と先生の姿がぼやけてうつっていた。
 「先生はずっとそうだったよね」
 ため息混じりに言葉を吐き出す。
 「授業の質問には完璧な答えをくれるのに、こういうことになると歯切れがわるくなる。……僕がどんなに好きだって言っても、とりあってくれない。僕が本気でないと思ってたから?それとも僕は先生に難しいことを要求してる?」
 まるで子供に言い聞かせるような物言いでそう問いかけると、先生はお決まりの下から人を見上げる、試すような視線をよこしてきた。
 いつもは不躾とも思えるほどに真っ直ぐ相手を射抜く目が、今は困惑しきっていて覇気がない。
 「私は男ですよ」
 「知ってる」
 平然とそう切り返すと、先生が閉口するかのように口をへの字に曲げた。
 構わずに言葉を続ける。
 「僕はただ、先生の気持ちが知りたいだけだよ。僕が本当に本気で先生を好きなんだって分かってもらった上で、先生の返事が聞きたい。先生が無理だって……僕のことはそういう意味で好きになれない、付き合えないっていうんだったら諦める」
 真摯な表情で先生の視線を捕らえながら僕がそう言うと、先生は居たたまれないようにまた視線をおとし、親指の爪をくちびるに押しつけるようにして噛んだ。
 考え事をしているときや、動揺したときに無意識に出る先生の癖。
 先生自身も半ば気がついていないようだったが、先生のことならいつも、一挙一動をも見逃さないように見つめていたから僕には分かる。

 この動作のあと嘘を吐くときは、必ず目を右に反らせるんだ。

 読みどおりに右へと泳いだ先生の目を見て、やっぱりと心の中で嘲笑した。同時に、微かな落胆と失望を覚える。
 先生は、本心を話す気はない。
 その唇を云いあぐねるようになんどか開いたり閉じたりさせたあと、先生はようやく苦笑するような表情をかたちづくった。
 「夜神くんは、若いですから……恐らく、私に対する別の気持ちを恋愛感情かなにかだと履き違えているんだと思います」
 頼りない声で紡ぎ出されるその返答に、僕はぴくりと目の下に皺を刻んだ。
 「私なんかに固執しなくったって夜神くんは充分に魅力的な人ですから、きっとこれから先素敵な女性が現れて、私のことは一時の気の迷いだったと思えるようになりますよ」
 「答えになってない」
 非難するような口調で言うと、先生の眉がさらに困惑して下がった。
 「夜神くん……」
 「僕の気持ちが間違いだとかそんなことは関係ない。先生の気持ちを聞かせてよ。僕をただの生徒じゃなくて恋愛対象として見ることができるのか、イエスかノーではっきり答えて欲しい」
 膝の上に置かれていた節くれた先生の細い手を握ると、目に見えてその肩がびくんと揺れた。
 噛んだままの親指の爪に、音が聞こえそうなほどいっそう強く歯をたてている。
 その手も空いているもう片方の手で捕らえてむりやり爪を口から離させると、そのまま重ね合わせるようにして身体を寄せた。
 先生は逃げ道を無くしたかのように泣きそうな表情を浮かべて、ただ固く身をすくめている。
 「先生」
 その黒い目を見つめたまま言葉を促すようにそう呟くと、先生は視線を僕から外してそれを右のほうへと逸らせた。

   「や、夜神くんは、まだ子供ですし………第一、私となんかじゃ釣り合いませんよ」

 その台詞を聞いた瞬間、なにかが切れた。

   途端に胸の奥の底で、焦燥感と衝動が混ざり合ってせり上がってくるような、怒りにも似た感覚をおぼえる。

 先生は本心を話す気はない。
 だったら、もうこれ以上はどんなに話したって無駄なことだ。

   「………わかった、もういいよ、先生」
 低く抑揚の無い呟きに、先生がはっと怯えるような視線をあげた。
 「………夜神くん…?」
 その細い手首を荒っぽく掴み、立ち上がるとむりやり引き上げるようにして先生を立たせる。その乱暴なやり方に先生の顔が僅かに歪んだ。
 「…やが……」
 すくんだ、か細い声が僕を呼ぶ。
 それを遮るようにして吐息が触れ合うほど顔を近づけると、冷たい声音をつくり言い放った。


 「口で言ってもわからないんだったら、直接身体でわかって貰う」


 
 



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