ジェラシー編





 「先生、恋人いたの…?」


 僕のその意外も意外といったリアクションに少なからず憤慨したのか、 「いちゃ悪いですか?」と竜崎先生は眉を寄せつつそっぽを向いた。

 この春配属されたばかりの新米教師な先生は、当たり前ながら三月までは 東応大のキャンパスを闊歩する大学生だったわけで。
 その遍歴には、数ヶ月しか付き合いのない僕の知らない先生が居る。
 どんな大学生活を送っていたのか。
 どんな人間と交友関係があるのか。
 どんなことに興味を抱いていたのか。
 そして、
 何より気になるのは、これまでの恋愛履歴。

 これでいて先生のことに関してだけは、自分でもびっくりするほど臆病で小心になってしまう僕は 質問するのにも結構勇気が要った。どんな答えが返って来るか未知数だったからだ。
 しかし、思い切って「大学時代、付き合ってた人っていた?」聞いた僕に先生は、あっけなく「いましたよ」と まるで昼食のメニューでもたずねられたかのように素っ気無く答えた。


 恋人がいたというのは別におかしいことではない。
 むしろ普通だろう。
 だが先生に関しては、いかにもそういう色恋沙汰に疎そうで、実際疎くて、  見た目に性的な匂いのしない男だから、実際訊いてみるとやっぱり意外としか云いようがない。

 「イヤ、悪くはないけど………」

 「………けど、なんですか?」

 「………………やっぱり想像できないな…"先生"じゃない先生って」

 まじまじと見つめながらつぶやくと、訝しげな表情で上目遣いに僕を見ていた先生が、 ばつが悪そうに視線をそらすとデスクに向かい直した。照れてるときや拗ねたときによくやる動作だ。

 「別に…普通の学生生活でしたよ」

 「ふうん…。…どんな人と、付き合ってたの?」

 「! あ…っ」

 先生が短く声を上げるのと同時に、がたん、と音を立ててコーヒーの入ったカップが倒れた。手にとろうとしたところをすべらせたらしく、おそらく砂糖のたっぷり入っているであろう褐色の液体が、デスクの上に 勢いよくぶちまけられる。
 あわてて立ち上がる先生より先に、机に散乱しているファイルをコーヒーの波がたどり着く前に素早く取り上げる。それを椅子の上に置くと、棚の上にあったティッシュペーパーを箱ごと先生に渡した。

 「す、すみません……」

 先生はなんでもよく落とす。
 それは指先だけでものを掴んだりする悪癖の所為だと常々思うが、何度注意してみても一向に直らないし あまりにも日常茶飯事なのでもう慣れた。

 「何、動揺してんの。動揺するようなことがあった訳?その"昔の"人と」

 わざと意地悪い云い回しで聞いてみると、デスクの上を拭きながら先生があからさまにむっとした表情で僕を睨んだ。

 「おかしなこと云わないでください!
 もう…邪魔をするなら出てってください。今忙しいです」

 確かに、学期末のこの時期、副担任とはいえ先生のやることは山ほどあるのだろう。
 いつもファイルが並べられているデスクの脇の棚には、更にその上にも書類が無造作に山積みされている。

 「冗談、冗談。怒らないでよ」

 期末テストやら学内行事やらで何だかんだこの二週間、先生とは一度も恋人としての時間はおろか、ゆっくり 話す暇もなかったのだ。片手間でもいいから、少しだけでもこうして一緒にいられるひとときは貴重だ。

 「まったく…。何度も云いますけど、本当に何時に帰れるかわからないですよ。さっきから変なことばかり聞いてくるし… そんなこと聞いて何になるんです?」

 「変なこと? 先生のこと、どんなことだって知っておきたいから聞いてる。…駄目?」

 デスクに手をつき、猫背ですこしうつむいた先生の顔を覗き込んで微笑むと、それだけで先生の頬はみるみるピンクに 染まる。全くもってわかり易い先生の反応。慌てて僕から目をそらすと一歩後ずさって縮んだ距離を広げる。
 まるで人慣れない小動物を見てるみたいだ。

 「ゼミで…一緒の、同い年の人でしたよ。一年くらいでしたけど…」

 うつむいたままぼそっと呟く。

 「女?」

 「!! あ…ッ当たり前じゃないですか!!」

 そうだろうけど。
 モラルや常識の塊みたいな先生が、男と付き合ってたという遍歴があるとは到底考えられない。 もちろんそれは、先生を初めて抱いたときから知ってる。

 「そうだよね。先生の"処女"は僕がもらったんだもんね?」

 「………っそういうこと云うから………馬鹿…」

 からかうとすぐ耳まで真っ赤にして怒る先生は、ホントに子供っぽくて可愛い。
 教壇でのすました教師の顔がまるで別人みたいで、こんな先生を知ってるのは学校中でも僕だけなんだと思うと 妙にうれしくなってしまう。


 でも、僕の知らない過去の先生。

 先生が先生じゃない頃は、誰を恋人と呼んでどんな表情をしていたんだろう?


 「!」

 デスクを拭き終わり椅子に座りなおした先生の肩を、背後からゆるく抱きしめると大袈裟なほどにびくんと 身体が強張った。

 「や…、やめてください…夜神くん、今日だけは駄目…」

 仕事が、と腕を引き剥がそうとする先生を尻目に、白衣の襟もとから首筋、耳裏までをくちびるでたどってゆく。 ちゅ、と音をたてて耳朶にキスをおとすと、きゅっと肩がすぼまった。ほら、こんな些細なことでも快感を拾ってる。
 僕とこういう関係になってから、押さえ込んでいたものが一気にあふれだすように 先生はセックスにのめり込んでいっているのを僕は知ってる。
 優秀で物覚えがよくて、好奇心の強い先生は、こういうことにだって本当は人一倍興味がある癖に、 いつもそれを理性でおさえようとする。本当はこうしてほしい癖に、臆病で慎重だから素直にYesとは云えないんだ。

 「元彼女とはこういうこと、した? それともされたの?」

 「なに……」

 「僕が、嫉妬しない人間だと思う?」

 「やが……、っあ!」

 白衣を捲くりシャツの上から胸元に手のひらを忍び込ませると、短く高い声が上がった。
 二週間、先生の身体にはふれていないぶん返って来る反応も過敏だ。

 「い、いやですッ、夜神くん…、嫌っ…」

 シャツのボタンを外そうとしたところで手を引っぺがされた。
 腕を緩めた瞬間、白衣の袷を守るようにぎゅっと閉じて前のめりに縮こまる。

 「もう…!!お願いですから仕事させてください
 こんなんじゃ夜になっても帰れないです」

 窓の外からは沈みかけた夕陽が射し込んでカーテンや床をあかく染めている。
 放課もとうに過ぎた午後五時半。下校する生徒の群れもまばらだ。

 「僕は別にかまわないけどね。朝までかかったって、先生と一緒なら」

 「夜神くん……」

 呆れたような、困ったような声で先生がため息をつく。
 その赤みのひかない顔を見つめていると、なんだか今日は意地悪したい気持ちが抑えられなくなってきた。
 くちびるの端を吊り上げて微笑んでやると、怪訝そうな先生がさらに眉根を寄せる。



 「わかった。いいよ、先生は仕事してて。
 …僕は好きにしてるから」






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