彼の口をついたその短い台詞を聞いた瞬間、
 すうっと身体から血の気が失せた。


 『早く脱げよ』


 先日の忌まわしい出来事が、一瞬のうちにフラッシュバックする。
 途端、リアルに蘇ってくる記憶と感覚に、ぐっと気管からこみ上げてくる吐き気をなんとか押し留めながら、私はその場に真っ直ぐ立っているのが精一杯だった。
 それが金品にせよ単位にせよ、何かを脅し盗られるほうがまだましだ。
 彼はまた、あの無体を強いようというのか。私に。


 「どうしたの、先生?」


 顔が上げられない。
 恐らく彼は嗤っているだろう。

 身じろぎもしないまま床の一点を見つめていると、不意に彼の指が白衣越しの肩に触れた。自分でも驚くほどに身体をびくつかせ思わず顔を上げると、彼は心底可笑しそうににやにやと唇を吊り上げて私を見下していた。


 「ベッドがいい?それともこのまま此処で?
 それくらいは選ばせてやるよ」

 「…………!」


 羞恥と屈辱にかっと頬が熱くなる。
 ぐっとくちびるを噛みしめやっとの思いで彼の顔を睨みつけると、肩に触れた掌を乱暴に振り払いそのまま椅子から立ち上がった。

 目の前が闇だ。
  
 怒りか恐怖か、平衡を保つことすら危ういような眩暈を感じながら、私は重い足を引きずるようにして、窓際のベッドへと向かった。















 陽射しの映る窓を覆ったカーテンに、無機質なパイプベッド。


 真っ白なシーツの掛かったそれは、塵ひとつも行われた陵辱の痕を残してはいない。
 それでもあの時受けた苦痛と恐怖は、確実な爪痕を私の記憶にはっきりと留めていた。


 忘れることも、逃げ出すこともできない。

 ただ、振り返ればそこにあるだろう彼の笑顔が私には恐ろしかった。


 ベッドサイドに立ち尽くしたままでいると、背後に歩み寄ってきた彼が入り口のカーテンを閉めた。いちいち彼の挙動にびくつく私が疎ましいのか、ふう、と大袈裟なため息が聞こえてくる。
 脱げ、と云われた通りにしなくては、と廻らない頭で思ったが、汗を握った手はふるえてしまって動かそうにも満足に腕をあげることすら難しい。

 「!!」

 ようやく白衣のボタンをひとつ外したところで、乱暴に腕を掴まれた。
 押しやられた反動で、そのままベッドに押し倒されるようにしてうつ伏せに倒れこむ。

 「……ッ」

 背中に圧し掛かってくる彼の体重を感じた瞬間、
 私は無意識のうちに悲鳴を上げていた。

 「や…、ッ 嫌… ぅ!!」

 大声を上げる前に、間髪入れず伸びた掌が口を覆い塞ぐ。
 上体を捩じらせ腕を引き剥がそうとするが上手くいかなった。そのまま体重でぐっと押さえ込まれたかと思うと、彼の顎が首筋に触れ、熱い吐息が伴ったくちびるが耳朶を食む。
 ぞくりと背筋を奔った感覚に、反射的に肩が窄まった。


 「騒がないでよ。誰かに見られても構わないならいいけど」

 「……っ、……」


 視界の端に映る顔をせめて精一杯に睥睨する。

 悔しい。悔しい。
 こんなふうに同じ男にいい様に扱われるなんて。


 泣きたくない、泣いては駄目だと思うのに、思いとは裏腹に勝手に涙が溢れてくる。

 「…ぅ…、…っく…」

 必死に嗚咽を押し殺し、泣き顔を見られないようシーツに顔を埋めている間にも、身体をまさぐる彼の掌は手際よくひとつひとつ纏った衣服のボタンを外していく。
 首をうつむけ露わになった項をなんどもくちびるで愛撫しながら、彼は開いたシャツを捲り上げ隙間から手を這わせ入れた。

 「…ん … !!」

 ざわり、と肌が粟立つ。

 そのおぞましい感覚に思わず逃れようと背を丸めると、口を塞いでいた掌が離れそのまま下肢に伸びた。

 「ひ …、」

 服の上から際どい箇所をなぞられ、喉が絞られるように短く鳴る。


 このあとどうされたか、
 意識が無くなるまでの間どこをどう弄ばれたか。
 脳裏に蘇る記憶に全身が強張る。


 逃れようという意志は無かった。
 ただ恐ろしくて動くことすら出来ない、初めての感覚だった。


 おそらく彼は捕食者で、私は獲物なのだ。


 呼吸すら潜めてじっと固まっている、恐怖が滲みきった私の反応に満足なのか、指先がやさしくシーツに散らばった髪をなんども撫ぜてくる。
 穏やかな声音が、そっと耳もとで囁いた。

 

 「いい子だね…先生。大丈夫。云ったろ?
 …大人しくしていれば、ちゃんと気持ちよくさせてあげるから」