避けられていると気づいてからというもの、
 僕はいちども先生の根城である化学準備室へ足を運んでいなかった。


 自分を避ける理由を聞きたい、はっきりさせたいという気持ちは山々だったが、明らかに自分と顔を合わせるのを嫌がっている人間の元へ、何の気もなしに平然と顔を出せる程厚顔に出来てもいない。
 それに、先生のあの態度が倦厭や嫌悪からくるものではないだろうことを、論理上で僕は薄々悟ってはいた。純粋に嫌っているだけなのなら、利口な先生ならもっとうまくやるだろうし、あんな困惑した表情だってしないだろう。
 しかし、いくら頭で整然と思案してみても、所詮推測は推測の域を出ず、
 もしかしたらという不安を拭い去ることは出来ない。


 いつだって完璧に感情を自律し、怜悧に支配してきたはずの僕の心中は、
 自身失笑してしまうほど静かに乱されていた。












 放課後。
 長い廊下に差し込む陽はすでに幾分も傾いでいる。


 金曜の終業後に好き好んで校舎に残る生徒など、部活動生を除けば居ようはずもなく、静まりかえった廊下に、床の上を靴裏が叩く音がやけに響いて聞こえた。
 「塾に間に合わないから」と僕一人に日直の仕事を押しつけ、もう一人の当番だったクラスメイトが悪びれる様子もなくさっさと下校するのを愛想笑いで見過ごし、僕は教室の戸締りを確認し、日誌を記入して、最後の仕事を片付けようと廊下を歩いていた。


 実のところ、相手が帰ってくれたのは僕にとっては好都合だった。
 此処をひとりで訪ねる口実が欲しかったから。


 離棟の一番奥、『化学準備室』のプレートが掛かった部屋。
 僕はその前に立つと、軽く扉を叩いた。
 いくらかの間をおいて、室内から「どうぞ」と聞き慣れた声が返ってくる。
 僅かに胸がさざめくのを感じながら、僕はドアの取っ手に指をかけた。
 「失礼します」

 その声で即座に訪問者が誰であるのか悟ったのか、部屋の奥で、ドアに背を向けたままデスクに座っていた先生が、びくりと肩を揺らしてこちらを振り返った。

 「やがみく…」

 僕を視認するやいなや、その貌に動揺と狼狽が入り混じって曇る。
 明らかに、この状況を歓迎していないであろう意思が容易なほどによみとれた。

 僕は微かに落胆しつつも、大仰に手にしていた日誌を持ち上げ示してみせる。

 「日誌。今日担任休みでしょ」
 「……あ、」

 担任の教師が休みの時は、副担任にその責務が廻るのは当然のことだ。
 日直の仕事は、最後書いた日誌に、担任教師の印鑑を貰って提出して終わる。

 先生はわずかに首を俯かせたままぎこちなく日誌を受け取ると、ほそい指でページを捲り、手早く開いた今日の日付の所定欄に教師印を押印し、

 「確かに預かりました。ご苦労様でした」

 顔をあげることなく、視線を泳がせながら口早にそう云った。


 「………………」
 思わず半眼になってその素っ気無い横顔を見やる。


 さすがにそこまで露骨だと、
 少し意地悪してやりたくなる。


 「……?」

 デスク脇に突っ立ったまま動こうとしない僕に、先生が微かに眉を撓めた。
 叱られた子供のように居心地悪そうに顔を伏せたまま、猫背の背中をいつもより丸めてみせる。

 「あの、夜神くん…?」

 恐る恐る、上目遣いに僕を見上げながら名前を呼ぶ先生に、ゆっくりと手を伸ばす。
 その動きを、先生の目が追うのがわかった。


 「先生、触っていい?」


 いきなり放たれた僕の台詞に、「え…」と狼狽えた声を出す先生の返事を待たず、
 そのまま伸ばした右掌でなだらかな頬をするりと撫でる。
 指が触れた瞬間、びくっと目に見えて先生の肩がすくまった。
 金属が擦れる音を立てて、先生の椅子が僅かに軋む。
 空いている左手で、デスクに置かれている先生の右手を包むようにして捉えると、途端に掌の下の細く長い指がかたく強張った。反射的に引っ込めようとするその手を逃さず、手首ごとつよく握りこむ。

 「……、っ……」

 それでも、制止はしてこない。
 頬に触れていた掌を徐々に下ろし、シャツの襟首の隙間を縫うように指を這わせながら、愛撫するように首筋を辿る。先生は僕の動作に声もたてず、息をつめている。
 殆ど泣きそうな顔で身を固くし、視線をさ迷わせている先生を覗き込んで顔を近づけ、わざと吐息にのせて囁いた。

 「キス、していいよね? 恋 人 なんだから」
 「!」

 こいびと、の部分だけ、わざと強調して発音する。

 先生の目が、大きく見開かれた。
 構わずそのまま顎を捉え、わずかにくちびるをよせると、
 先生は観念したようにぎゅっと目を閉じて、呼吸を止めた。




 「………、…………?」

 いつまでたっても何も触れてこないのを不思議に思ったのか、
 先生が訝しげな表情でおずおずと薄く目を開く。
 その様子を僕は至近距離で眺めながら、にやにやとくちびるを歪めていた。

 「凄く嫌って顔してる」
 「え………」

 可笑しそうに笑いを噛み殺した声で呟くと、そこで初めてからかわれたと気がついたのか、先生はみるみる頬を朱に染め、掌で口元を覆い隠した。
 僕は微笑んで短く息を吐くと、先生に触れていた両手を退かせ、屈み込んでいた態勢から身体を起こして、云った。


 「ねェ、先生。イヤならイヤだって、ちゃんと教えてよ。こないだも言ったよね?
 無視されたり、避けられる方が僕は辛いって」
 「さ、避けてたわけじゃ…!」
 「ない?」
 「………………」

 先生が口ごもって俯く。
 僕は微かに溜息をついて、苦笑しつつ次句を次いだ。

 「先生がこういうこと、嫌がるのは仕方がないよ。僕が悪かったんだし……
 嫌なんだったら、もうなにもしないから」

 努めてやさしく語りかける。
 先生は目を伏せたまま唇を噛み、わずかに首を横に振った。
 ああ、また泣きそう。
 そんな顔をさせたい訳じゃないのに。


 「それとも、……もし、恋人とかそういうの、先生が負担に思ってるんだったら、
 僕は」


 云い終わらないうちに、先生が弾かれるように顔を上げた。
 「ち、ちが……!」





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