「違うんです…」

 授業中の先生とは及びもつかぬ、
 蚊の鳴くようなちいさな声。

 デスク脇、先生の腰掛けている椅子の横に沿うように立っている僕の顔を、窺うように先生が見上げた。視線が合う。久方ぶりにはっきり捉えた先生の黒い双眸に、ここへ来て先生は、ようやく初めて僕をまともに見たのだということに気がついた。
 相も変わらず、表情は泣きそうなまま。


 『先生が、好きだ。抱きたい』


 二週間前そう告げてからというもの、先生にはこんな顔ばかりさせている。
 困っているか、
 泣いているか、
 いずれにしたって、楽しそうに笑っていることなんていちどもない。


 そんな顔をさせたくて、告白した訳じゃないのに。


 華奢な肩をさも頼りなげに丸めて縮こまっている先生に、何だか胸のあたりが痛んだ。
 先生のことが好きなのに。僕は先生を困らせて、苦しめてばかりいる。


 ぼんやりと考えが及ぶと、黙ったままの僕に先生が、
 「違うんです」ともういちど、今度ははっきりと同じ台詞を繰り返した。

 「違うって……なにが?」

 問い返すと、先生はなんどか視線を上げたり下げたりして逡巡していたが、
 やがて云い難そうに重い口を開いた。

 「顔に出るんです」
 「…顔?」

 先生がさらに顔を下げ、長い前髪の下でなんどか目を瞬かせた。


 「校内で、や…夜神くんの顔を見かけるだけで、心臓がどきどきして、顔が熱くなって、とても普通になんてしてられなくなるんです…」


 不揃いの前髪にすこし隠された、先生の双眸を凝視する。
 居心地悪そうにその肩が揺らいだ。

 「私は出来る限り平静を装っていたつもりなんですけど、……女子生徒に言われたんです。『先生、最近好きな人でもできたの、顔赤いよ』って…。彼女は冗談のつもりだったんでしょうけど、傍目にもそんなふうに映るなら、夜神くんとのことなんて、すぐにばれてしまうと思って……だ、誰にも内緒にしないといけないことなのに……」

 喋るにつれて、先生の顔は不安な子供のように幼くみえてくる。
 覇気が無く、抑揚が落ちつかない消え入りそうな声は、わずかに震えていた。

 「わ、私だって避けたくて避けてた訳じゃありません。でも、どうしようもないんです。どうしていいのかわからなくて……こ、こんなこと、今まで生きていていちどだってありませんでしたから……」

 「……………」
 項垂れて、深刻な事態かのように話し続ける先生を呆然と見下ろす。
 多分、すごく間の抜けた顔になっていると思う。

 「じゃあ……僕のこと嫌いになった訳じゃないの?」
 「な、なんでですか!?」

 先生が素っ頓狂な声をあげて僕を見た。大きく目を見開いて、さも意表をつかれたと云わんばかりのその表情に、嘘がないことを悟る。

 「よかった…」

 先生の両肩に手をついて、僕は大きく息を吐いた。
 澱のように心の底にこびりついていた悪溜が溶解していくのを感じ、僕自身、思っていたよりも見えない先生の本心への不安は大きかったのだと自覚した。

 「や…夜神くん…?」

 状況がが飲み込めていないのか、
 頼りなげな声が、ちいさく鼓膜を揺らす。


 「嫌われたのかと思った」
 思考するより先に、本音が口をついていた。

 「ほんとは嫌われてて、ほんとは僕の恋人になんかなりたくなくって、迷惑に思ってて、それで、僕の前ではいつも泣きそうな顔をしてるのかと思った」

 僕の独白じみたその台詞に、先生がさらに目を見開く。

 「そんなこと……!」
 「わかってる」

 肩に置いていた両手を上らせ、先生の頬を包むようにして触れると、
 その顔を窺うように覗き込んで訊いた。

 「抱きしめてもいい?」
 「! ……………」

 いつも通りに笑んだつもりだったが、すこし情けない表情になったかもしれない。
 でもそれも、先生が赤らんだ顔をばつが悪そうに頷かせたことで、
 すぐにどうでも良くなった。

 言葉も無く、代わりに先生の両腕が僕の背中に伸びる。
 おずおずとぎこちなく、それでも受け入れるように僕を抱きしめてくる先生に合わせるように、僕はその細い身体に軽く体重を預け、顔を肩口に埋めた。
 頬を滑る洗い晒しの白衣の感触に、薄く目を閉じる。

 微かな先生の髪の匂い。

 こうして互いに身体を寄せて抱きしめあっているだけで、
 ばかみたいにどきどきしている。

 誰に触れても、触れられてもこんなこといちどだって無かった。
 触れるのが憚られることも、触れたいと願うことも。
 先生だけだ。









 ゆっくりと、触れあわせた身体を引き離す。
 途端、互いの隙間の空気に体温を奪われ、先生の身体がぶるりとちいさく震えた。
 名残惜しげに黒髪を梳くように撫でていると、先生がなにか云いあぐねるように視線を落としたままくちびるを慄かせた。
 「あの……」

 「心配しなくても、なにもしないよ」
 「え…」

 先生が微かな声を上げて、僕を見た。
 わざとらしくくちびるを歪めて、品定めするようにその先生の顔を覗き込む。

 「触られたりするの、イヤなのは本当でしょ?」
 「………………」

 図星だ。

 嘘が吐けない先生の顕著な反応に、僕はくく、と可笑しそうに喉の奥で笑うと、両手を完全に先生の身体から離した。

 「いいよ。先生が良いっていうまでは、我慢するから。
 僕だって、先生の嫌がることはしたくないし」

 実際、本音だった。
 先生が嫌だと云ううちは、なにもしたくない。
 先生と知り合う以前の僕であれば考えもしないことだったが、先生ばかりはどうも他と勝手が違う。ただ、二週間前のような思いは、もうさせたくなかった。


 そのままその場に立ち上がろうとした瞬間、
 先生の指が僕の制服のジャケットを掴んだ。

 裾を引っ張られ、不意に上体を屈みこませた体勢のまま、片手をデスクの淵につく。
 不自由な格好を強いられ、僕は先生の手と顔を交互に見やった。


 「いい、ですよ」

 先生?と口に出して問いかける前に、予想もしない言葉が降ってきた。


 「いいですよ……しても。キスも、そ、れ以上、も………
 ……や、夜神くんが…したいなら…」


 「……………」
 喉から搾り出すように放たれたその言葉に、思わず目を見開く。
 一瞬驚いたあと、僕は苦笑してちいさく息を吐いた。
 
 「無理しなくてイイよ。先生。怖いって顔に書いてある」

 吐いた台詞が居たたまれないのか、先生は真赤な顔を俯かせて、痛々しいほどに背中を丸めている。ほんのすこしだけ、膝の上の手指が震えているのがわかった。
 明らかに怯えたような反応を見せながらも、それでも先生は
 言葉を紡ぐのをやめようとはしない。

 「こ、こわいですけど……怖いのは嫌ですけど……
 や、夜神くんなら……」

 握ったままのジャケットの裾に、跡がつきそうなくらいぎゅう、と力が込められる。
 羞うように、睫毛の下の瞳がうつろいだ。

 「夜神くんだったら、…いいです」

 「………先生?」

 返事はなかった。
 代わりに伸びてきた先生の両手が僕を引き寄せる。
 重心を椅子の肘掛にかけ、影が視界に重なったかと思うと同時に、唇の端にやわらかいものが触れた。それが先生のくちびるだと気がつくまでに、数秒かかった。

 的はずれの、拙く幼いキス。

 一瞬で蝕まれる。すこし熱をもったくちびるが触れた箇所から恍惚が皮膚を辿り、感覚が麻痺して霧散する。眩暈のするような錯覚に指先も動かせず、目すら開けていられなくなり僕はされるままに瞼を閉じた。
 視覚を遮断すれば数センチの距離すら失せて、
 密着した身体からはただ 

 先生の匂いがした。






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