果たして助かったのか、形勢が悪化したのかは非常に判断に悩むところだが、
 ドアの前に立っていたのは、古泉だった。

 扉の取っ手に指を掛けたまま、事態が飲み込めていないかのような表情をこちらに向けて佇んでいる。奴の面食らった顔なんて貴重だと思ったが、無論そんな場合でもない。
 どうして古泉がここにやって来たのかという疑問が湧いてもきたが、何事かを口にする前に目じりからぼろっと大粒の涙がこぼれた。はっとしたが手遅れだ。
 ぎりぎりまで堪え緊張していたものが一気に崩れるように、一度あふれてしまうともう止まらなくて、俺はとうとうしゃくり上げながら子供みたいに泣き出してしまった。
 古泉の姿を見た途端これか。情けないにも程がある。

 「うっ…、く…、っこいずみ…ッ、…!」

 何とか拘束を振りほどこうと試みたが、がっちりと体重をかけられ押さえ付けられた腕はまったく動きそうにない。くそ、離せ!

 「よぉ、遅かったじゃないか」

 会長がニヤニヤと底意地の悪い笑みを古泉に向けた。
 同時にシャツに突っ込んだままの掌がまさぐるような動きを再開する。

 「っや…いっ、やだぁ!!」

 自分でも驚く悲鳴みたいな声が出た。びくんと喉が反る。腕を押さえ込まれたままでは、せめて身体をよじって抵抗を示したところで高が知れている。
 今すぐこの場から蒸発して消えてしまえたらどんなに良いだろう。
 よりによってこんなところを、古泉に見られるなんて。

 漸く事態を把握したらしい古泉が眦を吊り上げる。
 整った顔が怒りを滲ませると一層迫力が倍増して恐ろしいことこの上ない。怖い以上に古泉の顔を見ていられなくて、俺はぎゅっと目をつぶった。

 「…彼に、何をしてるんです」

 低く唸るような声が鼓膜を伝わる。
 剣呑な空気もものともせず会長は平然とした様子で、

 「見てわからないか?これからがイイところだったんだがな。
  お前が遅刻した分、遊ばせて貰ってたんだよ」

 その台詞に俺は目を見開いて会長を見上げた。
 こいつ、古泉がここに来ることを知ってて俺にこんなことしやがったのか!
 最低だ。悪趣味にも程がある。

 「彼を離して頂けませんか」

 丁寧な口調は崩れないが、言葉の端々が震えるような怒気を孕んでいる。
 真顔の古泉自体珍しくはあるが、ここまで態度にはっきりと敵愾心をあらわにしている古泉というのはついぞ見たことがない。
 ここが閉鎖空間でなくて本当に良かった。
 いや、そうでなくとも今にも会長に掴みかからんばかりの空気ですらある。
 さすがにそれはやばい。品行方正な優等生が放課後の生徒会室で生徒会長に暴行なんてしゃれにもならん。
 狼狽えつつ再度腕に力を入れると、漸く解放する気になったらしく今度は簡単に拘束が解けた。両手が自由になるなり俺は上半身を起き上がらせ、捲り上げられたシャツの裾を掴んで直し、思い切り会長を睨み据えた。
 人を食ったような笑みのまま、会長が両肩をわずかに竦める。
 畜生、殴りたい。

 「キョン君。…こちらへ」

 古泉が手を差し出しつつ促す。
 慌てて磔られていたデスクから降り会長の脇を抜け、ドアの、古泉の方に駆け寄った。
 手の届く距離に来たところで腕を捕まれ、殆ど力任せに引き寄せられる。そのままドアの外に押しやられた。古泉の背後に廻る形になって、ブレザーの背中で室内の会長の姿は殆ど見えない。

 「…どういうつもりかは知りませんが、貴方とはお話するところが
  ありそうですね」
 「へえ、内緒話があって来たんじゃなかったのか?」

 古泉がここに来たのはやはり機関絡みか。
 よく考えなくとも会長に用があるという時点でそれ以外にないが。


 「…後で連絡します」


 それだけ言うと、古泉は扉を閉めた。


 ともかく助かった。

 安堵から細く息を吐き出す。
 もしもあのまま古泉が現れなかったらどうなっていたかなんて考えたくもない。今更に震えが来て、ボタンのひとつ無くなったシャツの胸元を掻き寄せ下を向いた。気が緩むとまた目の奥がじわりと痛み出して、慌ててブレザーの袖でごしごしと頬を拭う。
 放課後とはいえまだ校内に生徒は大勢残っている。生徒会室の前で泣いているところなんて、誰かに見られようものなら格好の噂話の餌食だ。
 ドアの方を向いていた古泉の靴先が、ゆっくりとこちらを向いた。

 「……あ、…の、古泉…」

 俯いたまま恐る恐る呟くと、ふっと吐息のこぼれる音のあと、





 「……あなたって人は」





 聞いたこともない、低く、温度の感じられない声。

 思わずびくついて顔を上げると、古泉はいつものように笑ってはいなかった。
 下瞼に皺を刻むように目をわずかに細め、無表情で俺を見下ろしている。
 そんな顔の古泉を俺は知らない。
 少なくとも今までに、例え口論の最中だろうとそんな冷めた目を向けられたことはない。
 蛇に睨まれた蛙みたいに動けなくなった俺の腕を攫むと、古泉は無言のまま背中を向け廊下を歩き出した。背筋を冷たいものが走る。漸く覚った。

 俺は古泉の、決して触れるべきではない逆鱗に触れてしまったのだ。
















ルール オン ジェラシー 3




















 そして話は冒頭に戻る。

 あのあと、引きずられるままハルヒ達のまだ帰って来ていない部室へ鞄を取りに戻り、他の生徒の視線も憚らず玄関まで引っ張られた。二人揃って無断で帰ったりすればハルヒの機嫌を損ねかねないことは古泉だって重々承知だろうに、全くらしからぬ行動だ。
 坂を下る間も、電車に乗っている間も古泉は終始無言だった。

 たどり着いたマンションのエントランスを抜け、エレベーターに押し込まれるようにして乗り込む。自動扉の上部のパネルに表示階数がカウントされ、五階まで上りきる僅かな時間がやけに長く感じる。
 ドアを向いた古泉の表情は髪に隠れてよく見えない。

 せめて何か言って欲しい。

 俺は縋るように古泉を見つめていた。
 ひどく怒らせていることは間違いないだろう。当然だ。あんなシーンを目撃されたんだから。
 でもそれならはっきり面と向かって詰め寄られなじられでもするほうがましだ。沈黙が一番怖い。不安だけが増大して、逃げ出したい気持ちに駆られる。まるで心中を読まれたかのように、掴まれた腕にぐっと力が込められた。
 エレベーターの扉が開くなりまた腕を引かれ、とうとう古泉の部屋の前まで着いた。
 古泉はポケットから鍵を取り出し片手で器用に扉を開けると、促すというよりは放り込むようにして俺を中に入れた。

 「こ、古泉…っ」

 靴を脱ぐわずかな間すら惜しいかのように性急に室内へ連れ込まれる。
 リビングを通過して、向かった先は寝室だった。

 「あっ…!?」

 中に足を踏み入れるなり思い切り背中を突き飛ばされ、そのままベッドに倒れ込む。
 驚いて顔を上げると、古泉と目が合った。冷徹としかいいようがない眼差しで見下ろされ、背筋が凍ったように冷たくなる。
 古泉がベッドに片膝を乗り上げる。反射的にシーツの上を這い逃げようとすると、足首を掴まれ乱暴に引き戻された。

 「や、……っ!!」

 起き上がろうとしたところを手荒に両肩を掴まれ、シーツに押し付けられる。
 跨がりのしかかった古泉の手が、首にかかった。


 「……!!」



 そのまま縊り殺されるのかと思った。



 目をぎゅっと閉じて身を固くしていると、古泉の掌は頚許を撫でたあと直ぐに離れ、ネクタイにかかる。器用な長い指が結び目をほどき、小さく布擦れの音を立てて襟から抜かれた。


 「…会長と、一体何をなさっていたんです」


 やっと古泉の口から出た唸るような言葉に、俺はぐっと眉間をよせた。
 誤解だ、と叫びたかったが、渇ききった喉がはりついて上手く言語化できない。

 「何も仰らないんですか」
 「……っちがう、…古泉…俺は…っ!!」

 やっと口をついて出た否定の台詞を遮るように古泉の手がシャツを掴み、襟元を大きく開いた。おとがいを捉まれ、シーツに片頬を押しつけるように横向けられる。

 「…こんな痕をつけられて、なにが違うんです?」
 「………!!」

 やはり首筋に鬱血が残っていたらしい。
 古泉はその部分を何度か指でなぞると、そのまま唇を落とした。

 「……、…ぅ、」

 つけられた痕跡を上書きするかのようにきつく吸い付かれる。
 その針を刺すような刺激に声を殺しシーツを握りしめて堪えていると、

 「…ッい、あ!痛…ッ!!」

 いきなり歯を立てられ、痛みに身体が跳ね上がった。
 柔らかい皮膚を食い破らんばかりに咬みつかれ、ひっと喉が引き攣った音を立てる。
 涙が勝手に出てくる。痛みからだけじゃない。
 古泉の怒りの矛先が自分に向いている。そのことが堪らなく怖くて、悲しかった。

 「どうして泣くんです?…泣けば済むとでも思っていらっしゃるんですか」
 「……ッ、…」

 冷たく言い放たれる。そんなふうに突放す物言いもされたことはない。
 自分でも女々しい、情けないと思う一方でそれでも止まらない涙に、俺はいたたまれずに顔を背けた。

 「さすがに驚きましたよ。珍しく部室にいらっしゃらないかと思えば、
  生徒会室で他の男と逢引中とは」

 耳許で、低く喉だけで哂われる。
 無理やり顔を正面に向けられ、古泉と目を合わせることを余儀なくされた。
 俺のまばたきひとつからですら嘘を見透かそうとするような視線に、指先まで硬直して動けなくなる。

 「会長に触れられて、感じましたか」

 必死に首を横に振った。
 古泉以外の人間に触られたところで、嫌悪こそあれ感じたくなんてない。
 それは古泉だってわかっている筈なのに。

 「そうですか?…随分悦さそうに見えましたが」
 「そんなの、ちがう…、古泉ッ」

 古泉がまた嗤う。
 いつもみたいな柔和な笑みじゃない。
 穢いものを侮蔑するような、どこか酷薄な微笑だ。

 「淫乱なあなたのことです、口では嫌がっていても反応してしまったのでは
  ありませんか?」
 「うっ…、…ちが…」

 止めようとする意思とは裏腹に、涙の筋がこめかみを濡らす。
 掌でみっともない顔を隠そうとすると、手首を掴まれそれを阻まれた。
 再び覗きこむように顔を近づけられる。

 
 「あれ程僕以外の人間の前でこんな姿を見せないで下さい、とお願いしていたのに……まったく貴方って人は」


 ぎし、とベッドのスプリングを軋ませ古泉が俺の上から身体を退かせた。
 手には抜き出された俺のネクタイが握られたままだ。
 怯えを隠し切れずに恐る恐る古泉を見上げると、目を細めてにっこりと微笑まれる。
 これはよくない笑顔だ。これまでの経験上から瞬間そう察知する。











 「貴方の仰しゃっていることが本当かどうか、調べさせてください」






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これより尋問タイム入ります(・∀・)


update:08/1/31



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