目が合うと、奴は決まってなにがおかしいのかニコニコと微笑を浮かべながら、右手の人差し指をちょい、と曲げてみせる。
 ちょっと来い、の合図だ。
 普段用事がある時には他の同僚達と同じく名字に君付けで呼ばれるが、この合図をされた時ほど俺の気分が降下することはない。
 この職場にやってきて数週間。
 俺の目下の悩みは新入社員に有りがちな不慣れな業務内容でも人間関係でもなく、ああ、ある意味人間関係の問題なんだろうかこれは。そんなどうでもいいことを思いながら、俺はキーボードを叩く指を止め、誰にも気付かれないよう溜息をついて席を立った。

 「お呼びですか、古泉部長」

 管理職席のデスクの前に立つと、その席に座るには不釣り合いなほど若い、仕立ての良いダークグレーのスーツを纏った男は、薄い微笑を崩さないまま俺を見上げて言った。

 「先日申し伝えてあった新人研修、今日の業務終了後に行いたいと思うのですが、構いませんか」

 やっぱり来た。
 心の中で盛大に溜息をつきながら、俺は精一杯に平静を装い、はい、とだけ返事をする。 構いませんか、と疑問形であっても、この場合俺にノーと言える選択肢は用意されていない。
 俺の心中を察してかそうでないのかわかるはずもないが、目の前の男は微笑をわずかに深くすると、優雅なしぐさでデスクの上に指を組んだ。



 「では、のちほど研修室で」















研修室


















 鬱蒼とした気分で業務終了時間を向かえ、他の社員が帰っていく中、俺はあらかじめ指示されていた資料やら筆記具やらを持ってフロアを出た。
 重い足取りで研修室へ向かう途中、別の部署に配属された同期の谷口が肩を叩いてきたが、華麗に無視を決め込んでやる。上司に気に入られて羨ましいとか何とか騒いでいて、非常に殴りたくなったが自重した。
 そこまで言うならいくらでも代わってやりたいもんだ。

 廊下を突き当たった端にある研修室。

 入社してから幾度も足を踏み入れた馴染みのある場所だったが、俺には鬼門以外の何物でもない。
 中に入り、整然と並べられた長机の上に荷物をほうり出すと、俺は今度こそ誰に憚ることなく盛大に溜息をついた。


 「そんな溜息をついて、どうしました」


 いきなり背後から声をかけられて、俺は冷水を浴びせられたかのように竦み上がった。
 慌てて背後を振り返ると、そこにはさっきまでと変わらない笑顔を浮かべた古泉部長が立っている。一体いつの間に来たんだ!

 「し、失礼しました…!」

 「随分お疲れのようですね」

 くっくっと可笑しげに喉を鳴らしながら、軽く腕を組み首を傾げてみせる。
 若くして管理職に就いた経歴は伊達ではないようで、エリート中のエリート、やり手で知られるこの男は、社内外でも結構な有名人だ。それは肩書だけではなく下手な芸能人より調ったルックスのせいもあるだろう。

 「ああ…それとも、そんなに僕の研修が億劫でしたか」

 「そんな、ことは…」

 ドアが音を立てて閉まる。
 がちゃん、とロックがかかる音に、俺ははっとして無意識のうちに後ろへ後ずさっていた。それもすぐ背後にあった長机に身体が当たってどん詰まりに合う。
 ゆっくりと距離をつめられ、微笑んだまま伸ばされた部長の掌が腕にふれた。

 「…………」

 意味ありげに長い指が腕から肩、肩から首へとはい上がっていく。
 軽く触れられているだけで拘束されたわけでもないのに、身体が強張って動かない。
 襟元の隙間からうなじへと撫でられ、逆毛立つような感覚に思わずぐっと顔をしかめると、ふふ、と小さな含み笑いが鼓膜に届いた。
 顔を上げることが出来ずにうつむいたままの視界に、綺麗にプレスされたシャツにネイビーブルーのネクタイが映る。いつだって完璧で隙のないこの男を、社内の誰もが部下思いの人格者だと思っている。
 頤を捉えられ、促されるままに顔を上げた。
 いくらか近くなった、出来すぎとも思えるほど調った顔に覗き込まれ、俺は拒絶の言葉を噛み殺すかわりに精一杯に眦を吊り上げることで抵抗した。
 おかしな話だ。
 社の他の誰よりも数週間しか関係のない俺が、この男の本性を知っているのだ。
 くちびるを寄せられた耳朶を吐息混じりの笑いが擽った。


 「さあ、…始めましょうか」






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正直続きます\(^0^)/


update:08/4/17



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