「貴方には、涼宮ハルヒの監視を降りて貰います」



 その台詞に続くようにして、電車の接近を告げる自動アナウンスが流れた。
 終電近いこの時間帯、電車の到着を待つ乗客もまばらな地下鉄のホームに、僕は定例報告の為訪れた森さんと並んで座っている。
 久々の呼び出しで、てっきりまた報告書の催促でもされるものと辟易していた僕は、開口一番彼女の口から出た言葉に思わず耳を疑った。え?と聞き返すと、彼女は相変わらずの秀麗な美貌に無表情を貼り付けたまま同じ台詞を繰り返す。

 「期限は来週末。必要な手続きはこちらで済ませておきます。
  日曜には今の部屋を引き払いますので、そのつもりで」
 「待ってください」

 淡々とした事務的な口調を遮ると、彼女は真っ直ぐ待合のベンチに腰掛けたまま視線だけを流してこちらを見た。

 「理由は何ですか?」

 解任されるほどの大きなミスを犯した覚えはない。
 寧ろこの数カ月、神である涼宮さんの精神状態は、僅かずつながら振れ幅が収束しつつある傾向をみせている。閉鎖空間が出現する頻度も高校入学前とはまるで比較にならないほど減少した。それがこのタイミングで、こんなに急に異動を命じられるとは、まったく寝耳に水としかいいようがない。

 「貴方はこれ以上監視役を継続するには不適当。それだけよ」
 「上の決定ですか」

 明確な返事は返ってこない。
 前方に視線を戻したきり動かさない彼女の顔を覗き込むように、わずかに上体を乗り出しながら僕は言葉を続けた。

 「涼宮さんはSOS団という依り処を見出だして以来、落ち着きを見せてきているところです。今、僕が突然に団を抜けるとなると、彼女の精神にどういう影響があるか知れないと思いますが」
 「だからこそよ」

 予期しない返答に片眉をしかめる。
 線路を挟んだホームの向かい側、並列されている広告スペースを見つめたままでいた彼女が、ふいに顔を横向け僕を見た。
 怜悧とも思わせる印象の強い双眸が、正面から視線を交じわらせる。

 「理由なら、貴方が一番よく分かっている筈でしょう」
 「……どういう意味でしょう」

 わざととぼけた返事をした。
 彼女に虚飾も下手な取り繕いも通用しないのは承知している。
 その僕の返答に、彼女はうっすらと唇を頬で引いたように見えたが、すぐに元の無表情に戻り、

 「解らないと言うのならそれでもいいわ。とにかく、これは決定事項よ」

 三番線に電車が入ります、というアナウンスと共に、暗いトンネルの向こうから速度に比例して徐々に波長を下げる低い走行音が聞こえてくる。それを合図にしたように彼女は視線を元通り線路の方へと戻した。

 「来週いっぱいで、貴方には本部に戻ってもらいます。
  再来週には新しい選任者が任務に就くわ」
 「……………」

 閉鎖されたホームに耳障りな轟音が響き、進入して来た電車がゆっくりと停止すると同時に、ベンチから彼女が腰を上げる。ホームの片隅、最後尾に近いここからは他に乗り込む客もいない。安全扉が開くと、振り返りもせずに黒いスカートが翻る。
 無人の車両へと乗り込んだ彼女の後ろ姿を、電車が発車し再び仄暗いトンネルの闇へと消えていくまで、僕はただ沈黙したまま見送った。




 来るべき時が来たのだ。

 いつまでも隠しおおせられるとは思っていなかったが、こんなに唐突だとは予想外だ。
 機関に所属して三年間、共に仕事をして来た彼女がどれ程聡明で有能な人物であるかはよく知っていたが、まさかこうもあっさり見破られるとは。
 しかし、いつかはそうなるかも知れない、と自覚した時に覚悟していたとは言え、妙に冷静に思考している自分に拍子抜けした気分ですらある。とうとう他人に知られてしまったと言うのに。






 僕が、神の鍵たる彼に恋をしていると。










メランコリック・ブルー 0.5













 「本当にいいのか?」



 唐突な彼の声に、はっと思考が浮上した。

 「え、…」
 「そこに置いていいのかってこと」

 夕方の部室、長机を挟んで向かい合った彼が、呆れ顔でオセロの盤上を指差す。
 一瞬、昨夜の地下鉄での出来事に思考を飛ばしていたことを悟られたのかと焦った。ゲームの最中に他の考え事なんて、気を悪くさせてしまっただろうか。
 僕が白を置こうとしていた手許を止めて盤を注視すると、石を置きかけた場所をとん、と指先で叩きながら彼が次句を接ぐ。

 「ここに置けば三枚黒に返るが、俺が次手でこの端に置いたらどうなるよ」
 「ああ…全部白になっちゃいますね」

 普段こうしてゲームで対戦している時、滅多なことでもない限り、彼は僕がどんな拙い手を打とうとも口出しするようなことはしない。いわく『遊びとはいえイーブンなゲームだから』らしいが、それが珍しく口を挟んだということは、元より実力差が甚だしく退屈なゲームが、今日は輪をかけて張り合いが無いということなのだろう。
 ただでさえ弱い僕が、集中していないから尚更だ。

 「すみません」

 一応眉尻を下げて取り繕い、違うマスに石を置く。

 「何かあったのか?」

 考え事してるだろ、と彼がプレートから残り少なくなった石を摘み上げながら言った。
 彼自身無自覚のようだが、僕からしてみれば彼も大概鋭い観察眼を持っている。ただ、人が好いが故にごまかしが容易というだけだ。

 「いえ、もうすぐテストが始まるな、と」
 「げ…嫌なこと思い出させるなよ」

 思いきり顔をしかめる彼に、自然と唇が緩んだ。

 「でも、本当にそろそろ準備しておいた方がいいんじゃないですか?」
 「余計なお世話だ。…どうせお前は余裕なんだろ」

 特進クラス、と語調を強めながら頬杖をつき半眼になる彼に、微笑みながらそんなことないですよこれでも必死ですと言うと、顔に説得力がない、と両断されまた苦笑した。


 いつからだろう。
 こういうふとした時、彼の前で演技することを忘れるようになっていったのは。


 転校して来て数カ月、気がつけば彼の姿ばかりを追っている自分を知った。
 上からは彼の動向についても監視を怠らないよう言われていたが、それだけじゃない。
 それも最初は、ただ羨望からだと思っていた。涼宮ハルヒのお気に入りで一番傍近くにいながら、それでも何も変わらず平凡に笑っていられる彼が、能力に目覚めたばかりに普通の生活とは縁遠くなった僕には、その無邪気さが羨ましいのだと。
 それも日々を一緒に過ごすうちに徐々に形を変え、いつしかそれが恋慕と呼べる感情であることに気がつくのに、そう大して時間は必要としなかった。

 予想もしなかった事態だ。

 よもや世界の鍵を握ると言って過言ではない人間、
 まして、それ以前に同性である彼を好きになるなんて。
 それもただの慕情ではなく、はっきりと情慾を帯びているそれは、欲望だ。
 自分は異性愛者だった筈だと悩みもしたが、彼を見るたびに募っていく想いが心を占有していく事実に、気がついた時にはもはやどうしようも無いところに来ていた。
 笑い話にもならない。
 自分がこんなに簡単に、脳内伝達の誤作動ともいえる感情に溺れてしまえる人間だったとは、今まで生きてきて一度たりとも自覚したことなどなかったのだから。



 『貴方には、涼宮ハルヒの監視を降りて貰います』



 ふいに、昨夜の森さんの台詞が反芻される。

 このまま機関に戻ることになれば、恐らくもう二度と彼に接触することは許されないだろう。上がどこまで状況を把握しているのかは知る術もないが、少なくとも彼女に知られている以上はそう考えるのが妥当だ。

 「そういや」

 また彼の言葉で思考が途切れた。

 「土曜日、どこで待ち合わせるんだ」
 「土曜…?」

 一瞬、何のことを言われたのか理解できなくて目を瞬かせると、
 彼の口がへの字にまがる。

 「映画、行くんじゃなかったか?誘って来たのお前だろうが」

 そう言われてやっと思い出す。そうだ。彼を誘った映画が今週末だった。
 ああ、とさも忘れていたかのような僕の相槌が気に入らなかったのか、彼がさらに苦渋を押し出した表情になる。

 「すみません」

 ボーッとしていて、と後頭部に手をやると、彼はため息をつきながら僕に次手を打つよう促した。頬杖をついた体勢のまま、所在無げに彼が口を開く。

 「そうだ。お前、うちのお袋と会ったことあったか?」
 「え?ええ、以前お宅にお邪魔した時に、一度だけ」
 「映画に行く話したら、相手は国木田だと思ってたらしくてな。古泉と行くっつったら『あーあのアイドルみたいな子』だってよ。また連れて来いってやかましいんだ」
 「はは、それは光栄です」

 唇は微笑んだまま、指で石を弄びながら打つ場所を考える。
 もう数手で詰みだが、盤上は白一色にちらほら黒石が混じっている状態で、悩んだところで戦況は歴然としている。

 「年甲斐なくミーハーなんだ、あれで。土曜もなんとかって歌手のコンサートに行くから留守番してくれとか言い出してな」

 視線だけを上げて前髪の隙間から彼を見遣る。
 夕陽に染められた退屈そうな顔に、伏した睫毛が影をおとしていた。 


 「二週間も前から『ダチと映画に行く』って言ってあったのに」


 いつもなら聞き流す程度の会話だ。
 なんの含みもない日常会話。
 それなのに何故かその時はその一言が胸に引っ掛かった。

 友達。

 当たり前だ。彼にとって僕は友人以上でも以下でもない存在だ。
 今更考えることでもない。
 僕にしたって、この心のうちを生涯隠し通すつもりで、そうする自信もあった。
 彼にこの感情の一片すら明かさず、押し殺し葬って忘れ去るまで、同じ団員として、若しくは友人として、彼を傍近くで見つめていられればそれで十分だと。

 でも。







 もしも僕が、彼の前から姿を消したら。

 彼は何も知らないまま、それでも何事もなかったかのようにやがては僕を忘れていくのだと思うと、酷く胸をえぐられるような、たまらない気持ちになった。






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update:07/11/29



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