何をするにも上手くいかない日というものはあるもので、そうした時は大概運にも、神様にも見放されているものだ。 漸く、というよりは半ば強引に果たされた彼との約束は、結局閉鎖空間の出現によって尻切れ蜻蛉に終った。 予想をしていなかった訳じゃない。 前以て、今日という日に彼女の母方の家が法事であるが故にミーティングがキャンセルになる可能性が高いこと、そして、その親戚一同の集まりにおいて成り行き如何によっては彼女が機嫌を損ねてしまうかも知れないこと。 ただ、こうしたたまの休みに何も起こらず彼と、まがいものでも恋人のような、いや友人としてでも、有り触れた休日の1シーンを過ごしてみたいというのは僕のささやかな願望であったといえる。が、それも残念ながら過ぎた望みだったようだ。 映画館のある複合施設から駅まで、彼と往きに通った路を足早に進む。 雨脚は昼よりもやや強まってきていて、駅につくころには服の裾や靴が水をふくんでじっとりと重くなっていた。 到着を見計らっていたかのようなタイミングでロータリーに入り込んできた黒塗りのタクシーに無言のまま乗り込むと、今日に限って見慣れない顔の運転手もただ無言でドアを閉めすべるように車を発進させた。 ぽつぽつとフロントガラスを叩く滴は段々と激しさを増していく。 映画館のロビー、エンディングも待たずに置いてきた彼の姿がリプレイされる。 この雨じゃ、傘があっても濡れずに帰るのは難しいだろう。悪いことをしたな、最初から連れ出したりしなければよかった、そんなことを考えながら車窓をに目をやるうちに、サイドウィンドウごし、緩やかに流れるガードレールが次第に遠ざかり、車はそのまま高速に乗るようだった。 雨脚の向こう、林立するマンション群の上、煙るように歪む今にも堕ちてきそうな錆色の泣き空は、これから向かう灰色の世界と寸分の変わりもないように思えた。 向かった先は、郊外にある遊園地だった。 そういえばいつだったか彼女が、SOS団の面々で一度は行っておきたいわよね、と笑んでいたのを思い出した。 彼女自身、小さい頃に何度か両親に連れられ訪れたことがあるらしい、と、僕が知っているのは外ならぬ機関からの膨大な情報のひとつだ。 土曜だというのに生憎の天気のうえ、閉園間近のこの時間では人波もまばらで、ましてこれから中に入ろうという客は居なかった。 やや古びたゲートに足を踏み入れた瞬間、ぴり、と肌を撫でるような奇妙な感覚がはしる。現と閉鎖空間との境界線というのは、何度行き来しても慣れない。 視線を上げればいつもどおり、広がるのはどこまでも色のない無常の世界。 常ならば鮮やかな色彩があふれ、人のざわめきや笑い声が絶えないはずの場所が、人の影、声一つなく灰色に塗り潰されたさまというのは、実に嘘寒い風景だ。まるで百年前からの廃墟のような佇いで沈黙したメリーゴーラウンドを通り過ぎ、中央の広場まで進むと、轟音とともに青白い閃光が辺りを染めた。 どうやらお出ましらしい。 観覧車よりもゆうに頭一つ高い神人の蒼い躯の周囲を、すでに待機していた仲間と思しき光体がぽつぽつと取り囲み出していた。 この空間の中で能力を使うことは、別段難しいことでもなんでもない。 上がれ、と、自身の身体が重力を無視し浮くイメージを思い描けばそれだけで簡単に爪先が、石畳の地面から浮き上がる。 SFさながらのその様子は、CGでもフィクションでもない、紛れも無い僕の現実だ。 この三年間、飽きるほど繰り返して来た行程。 幾度倒そうが翌日にはまた蘇る神人狩りに虚しさを覚えないわけではないが、この能力に目覚めると同時に色々なものが掌からすべりおちてしまった僕にとっては、この閉鎖された世界こそが、事実、拠り処となってしまっていると言ってもいい。 それがどんな形であれ、誰かに望まれ、必要とされることこそが、 『必ず、帰ってこい。…お前はもうSOS団の一員なんだから』 一瞬、気をとられた刹那、 右に旋回しつつ紙一重で回避した青い腕が、急に角度を変え一閃に薙ぎ払わられる。それを視認できたとほぼ同時に、肩から脇腹にかけて鈍い衝撃が走った。 「………ッ、…」 息が止まる。 目の前が白くぶれて、喉の奥から錆っぽい味が広がった。 肺が潰れたように呼吸すら覚束無いほどの激痛の向こうで、誰かの叫ぶ声が聞こえた気がしたが、すぐに判別がつかなくなる。そのまま撃墜された鳥のように肢体が落下していくのを感じながら仰いだ虚空が、亀裂し、硝子のように弾けた。 コマ送りのように再生される意識の最期、瞼に焼き付いたのは、灰色の雨雲の隙間に僅かに覗く、ただただ無垢で透明なブルーだった。 メランコリック・ブルー 10.5 しんと静まり返った室内に、携帯の耳障りな振動音だけが響いている。 数えて七度目の同一人物からの呼び出しは二十コール目の途中で切れ、僕はそれをベッドの上に仰臥したままぼんやりと聞いていた。 何の変哲もない、いつもと同じマンションの白い天井をこうしていくら眺めてみたところで何等生産性はない訳だが、他に何をする気にもなれず、ましてや、こうして横になってからというもの、浅くまどろんでは目覚めを何度も繰り返していて、深く眠りこんでしまうことすら今は難しい。 閉鎖空間で意識を失って、気がついた時には機関の救護室だった。 そこで漸く自分が下手を打ったことに気がついたというのも笑い話だが、目が覚めたら、既に仲間が仕事を終え神人も閉鎖空間も消失した後だった。 僥倖ながらすんでのところで仲間の一人に助けられ、地面との衝突は避けられたらしい。怪我といえば神人に強かに殴られた脇腹くらいなものだ。 肋骨が折れているかもしれないから精密検査をと病院に直行させられそうになったが、そのまま入院などとなっては堪らない。応急処置もそこそこに、珍しく顔色を変えて食い下がる森さんを振り切って帰宅したのが明け方、今はもう一日以上経過して月曜の夕方近い。 それまでに何度も森さんからの着信があったが黙殺した。 我ながら子供じゃあるまいし馬鹿らしい、と思いつつも、ただ今は何も考えたくなかったし、誰とも話したくもなかった。 実際、怪我の塩梅は軽くはないらしく、登校は諦めざるを得なかった。 昨日から痛みに加えやたらだるさを増してきたところを見ると、本当に骨にひびのひとつも入っているのかもしれない。体温計を引っ張り出してみると、高めながらも微熱の範疇といった数値が表示された。 なにより、どうにもまともに眠れないのが辛い。 意識があればじくじくと止まない痛みと倦怠感にくわえ、どうしたってよくないことを考えてしまう。 船酔いのような眩暈のさなか、ふとした瞬間に考えてしまうのは、同じことばかりで。いつもつまらなそうに僕を見ている彼の声、仕種、そして。 「…………」 眠れ。眠ってしまおう。 いつだったか同じように負傷した際、医師から処方された痛み止めが引き出しの奥にまだ残っていたのを思い出す。あれを飲めばちょっとはましに眠れるだろうと、鉛のような体を無理やりベッドから起き上がらせた。 ふらふらとキッチンに向かうと、何も入っていないに等しい冷蔵庫からミネラルウォーターの五百ミリペットボトルを取り出し、白い錠剤とともに一気に飲み下す。 昨日から水分すらろくに口にしていなかった身体は渇いていたらしく、殆ど中身のなくなったそれを、錠剤の空になったアルミケースとともにシンクに放り出した。 薬が効いてくればすぐに眠れるはずだと念じつつ、日が傾いて薄暗くなりつつある寝室に戻る。ベッドにどさりと腰掛けると同時に、シーツの上の携帯が再び震え出した。また森さんからだろうか、それとも機関の他の誰かか。面倒臭いと思いつつ殆ど条件反射に手にとりのろのろと視線を向ける。 液晶に表示されているのは、先とは違う人物の名前だった。 ---------------------------------- update:08/09/02 |