何か良くないものが憑依してるんじゃないか。
 と胡乱になってしまうほど散々な目に遭って来た俺の高校生活だが、よもや同級生から脅され性的関係を強要されるなどという三文ドラマかエロゲでしか有り得ないような展開がプラスされるとは想定外の外だ。

 まあ脅迫されていると言っても、俺は特に不眠に陥るほど悩み抜いたり、あげくそれこそドラマ宜しくいっそ古泉を殺すしかないなどと思い詰めるようなこともなかった。
 古泉の要求が俺の意向とも合致していたということもある。
 こんなこと秘密にしたいと考えるのは万人に通用する当然の思考であって、別に古泉の言いなりになっている訳ではないと強調しておこう。

 考えていたよりも何もなかった振りというのも難しいことではないしな。

 何より古泉がそれこそ何事もなかったかのように以前と全く変わらない態度で接して来たから、俺はそれに合わせていれば良かったからだ。
 そりゃあ最初はそんな古泉に腹が立ったり動揺したり忙しかったが、元からそれが当たり前だったんだから慣れてしまえば特に演技を必要とすることもない。あんな形で貞操喪失したからといって、妊娠する訳じゃなし、精神的な部分を除けば被害はせいぜい人には言えないような部分が痛むくらいだ。
 これが女の子だったらそれこそ絶望の窮みだろうが。
 だからという訳じゃないが、平穏な部室の空気は俺にとっても居心地のいいもので、わざわざ波風を立てようとは思わなかった。どこか他人事のように感じている節もある、といえばある。現実離れした問題に巻き込まれた人間の思考なんてそんなものなのかも知れない。
 いつも通り放課後は部室に通い、手持ち無沙汰にボードゲームに興じ、時折勃発するハルヒの癇癪を適当に宥める。
 何も変わらない日常風景。


 それでも、あの出来事が俺と古泉の間で嘘になったわけではない。










メランコリック・ブルー 7










 「あんた達、なんかここ数日おかしくない?」

 唐突に話題を振られ、俺の心臓は凍りついた。
 思わず指先に摘んでいた碁石を取り落とすと、団長席に踏ん反り返っているハルヒの顔と目の前の古泉とを交互に見る。

 「はて、おかしい、とは…具体的にどういった部分がでしょう」

 柔和な笑顔を微塵も崩さず、古泉が首を傾げる。
 さすがにこれしきのことでは動揺しないらしい。

 「そうね…ぱっと見はいつもと変わらないんだけど、何て言うか、よそよそしい感じよね。ぎこちないというか。喧嘩でもしたの?」

 とんでもなく過敏な奴だ。
 そのある意味羨ましい能力をもっと別の方向に活かしてみたらどうだろうか。
 例えば何か無体な行動を起こそうという前に回りの空気を読むとか。むしろ気を回してほしいのはそういう時の俺の心境にであって、それは今じゃない。突っ込んでほしくない部分には目敏く遠慮なく突っ込む、それがハルヒという人間だ。勘弁してくれ。

 「僕には思い当たる節がこれといってないのですが…彼と仲違いした覚えもありませんし。そうですよね?」

 いけしゃあしゃあと言い放つ。
 もしかしたら今までもずっとこんな演技をしていたのかもしれない古泉にとって、造作もないことなのだろうか。

 「ああ…」

 お前の気の回しすぎだろ、と碁盤を見つめ次手を考える振りをしながら内心冷汗を流しつつ答える。
 ハルヒはふーんなどと納得したようなしていないような、どこか不満げな返事をしながら、デスクトップPCに向かい直した。
 その様子を端目に捉えながら、誰にも気付かれないように小さく安堵の息を漏らす。
 まったく心臓に良くない。
 ふと視線を上げると、盤の向こうの古泉と目が合った。
 ほんの一瞬俺を見つめた双眸は、すぐに碁盤の上へと向けられる。特にアイコンタクトを送ってきたわけでもないが、どこと無く纏わりつくような視線に胸がざわつく。それは単に古泉に見つめられても気色悪いだけだからであって、断じて視線の強さに怯んだ訳ではない。

 「そうだわ」

 高い声を出してハルヒが再びPCから顔を上げる。
 今度は何だ。

 「今週の不思議探索はなしね。あたし家の用事でどうしても抜けらんないの。まあ、ここんところ毎週立て続けだったし、たまには骨休めもいいでしょ」

 中止になる分には文句などあろうはずがない。
 むしろ諸手を上げて賛同するぞ。
 隅で本をめくり続ける置物と化してる長門も麗しきメイド姿の朝比奈さんも、それぞれ「……」「わかりましたぁ」などと通常のリアクションを返して了承した。


 「そうですか。いや、ちょうど良かったです」


 ニコニコと副団長殿が指を組み直す。

 「あら、古泉くん何か用事でもあったの?」
 「ええ、実は先月から公開されている映画を観たいと思っていまして。ちょうど彼と今週末あたりにどうだろうかと話をしていたところなんですよ」

 その台詞に、俺はぎょっとして古泉を見た。

 「ちょ…」
 ちょっと待て、と喉まで出かかった言葉を明瞭な発音になる前に何とか飲み込んだ。

 約束をしたのは確かだ。

 しかしそれはアレな事態になる前の話であって、こんな状況の今にあっては俺はそんな週末の予定などすっかり忘れ去っていた。

 「あら、そうなの?それならちょうど良かったわ。そうね、たまには男同士で友情を深めるのも必要よね。そういうことなら気を利かすわよ、あたしたちも」

 そんな局地的な部分で気を利かさないでくれ!
 と心の底から叫んだ。が、もちろん口に出せるわけはない。
 残りの部活時間中、ハルヒは映画の話を聞いて俺と古泉の不仲疑惑が杞憂であったことに満足なのか、終始上機嫌にPCを弄り、古泉は腹立たしい限りの笑顔を振り撒き、長門と朝比奈さんに至ってももちろん通常営業だ。
 欝なのは俺一人ってことか。忌々しい。
















 「俺は絶対行かんぞ。何考えてるんだ」


 夕焼けもたけなわの時間帯、下界へと続く坂道には前方を行く三人娘の他に制服姿は見当たらない。
 よく考えなくともあといくばくも無くテストが始まるこの時期、きっちり全員が集まって終了時刻まで粘る部活動なんざ俺達くらいなものだ。正式な部じゃないが。
 ハルヒ達には聞こえない程度の声で断固として拒否すると、横に並んで歩く古泉が何度か目を瞬かせ、

 「だって約束したじゃないですか」

 のたまいやがった。
 確かに約束を守るのは社会生活における根幹のルールのひとつだが、それは相手がルールを遵守するに値する信用を持ち得る場合だ。古泉はその信用を裏切った。
 古泉の所業に比べれば例え俺が約束を反故にしたところで些細なことだ。誰に責められよう。よって俺は行かない。以上。

 「それは困りましたねえ。折角のチケットが無駄になってしまいます」

 わざとらしく困った声を出すな。自業自得だろ。
 誰か代理人を立てればいいじゃないか。

 「そうはいきません。涼宮さんにあなたと一緒に行くと言った手前、違う人間と行ったりしたらそれこそ不仲を疑われます」
 「口裏合わせて俺と行ったことにすりゃあいい」
 「映画の感想を聞かれたら?彼女のことですからどんな穿った質問をしてくるかわかりませんよ。あなたに涼宮さんの追求をかわせるだけの機転が備わっているとも思えませんが」

 先ほどの様子を見ている限り、と古泉が口許をゆがませた。
 くそ、ムカつく。

 大体俺に行くつもりがなかっただろうことぐらい読めていた筈だろうよ。
 強姦魔と仲良く休日まで顔を合わせて映画に行こうと思える奴がいたらここに連れてこい。少なくとも俺は御免だ。

 古泉はくす、と喉を鳴らすと前方へ視線をやった。
 何を企んでやがる。

 大体タイミングが良すぎるじゃないか。

 毎週のようにSOS団の会合がある土曜日に、珍しく古泉がハルヒとの別行動を切り出し、ハルヒはハルヒでその日は用事があるという。
 その用事が法事やら何やらだとしたら、事前に古泉が知っていた可能性は山の如しだ。機関ならハルヒの昨晩のメニューだって把握してそうだからな。
 以前なら偶然か、で済ませていただろうが、今となってはそうはいかない。
 良からぬ計画を企てているとしか思えない。

 「別になにもありませんよ。あなたをお誘いした時点では、よもやあなたとこんな間柄になろうとは僕にも予想できませんでしたから」

 そんな不可抗力だったみたいな言い方をしても、おまえの前科は消えないぞ。
 嫌味のひとつくらい罰は当たらないと口を開きかけると、古泉の携帯が鳴った。

 「失礼」

 短く断って取り出した携帯を開いて一瞥すると、すぐに顔を上げて余裕ともとれるような微笑を浮かべた。

 「すみません、バイトが入ったようです。とはいえ、例のアレではないのでご安心を」

 別に何も心配しちゃいないけどな。
 あのけったいな灰色空間で巨人相手に奮闘するのはお前達の仕事だろ。
 俺には関係ない領分だ。

 「とにかく俺は行かないと言ったら行かないからな……おい、寄るな」

 出来るだけ身体が触れ合わないよう、かつ不自然でないよう俺が量っていた距離を詰められる。制服越しに腕が触れ、その温度に狼狽した。
 やたらに顔を近づけるんじゃない!
 俺は慌てて前を行くハルヒを見た。
 話に夢中で三人とも振り向く気配はない。ないが…。

 「おい、早く離れろ」

 古泉を引き離すべく掌で胸を押しやる。
 それとほとんど同時に驚くほど強い力で引き寄せられた。


 「土曜日の正午、いつもの駅前でお待ちしてます」


 古泉の肩に額をぶつけた俺の耳許で、低く涼やかな声が囁いた。






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update:07/10/16



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