メランコリック・ブルー 8 翌日、約束を謹んで辞退しようと部室へ行ったら、古泉は休みだった。 何か謀略的な匂いを感じるのは、俺の過剰気味な猜疑心のせいだろうか。 九組の担任が捕まらずに理由がはっきりしなかったらしく、部室に戻ってきたハルヒはわざわざ電話をかけていた。欠席した団員を心配してのことだろうが、腹でも壊して寝んでる最中とかだったらどうする気なんだろうな、コイツは。 程なく電話に出た古泉はハルヒの追求を上手いことかわしたらしく、ハルヒは活動時間中別段機嫌を損ねることもなかった。 何と理由をつけて宥めたものか、コツをお聞きしたいね。 「バイトか」 『ええ、まあ…それ絡みで』 パソコンに向かってサイト更新を始めたハルヒにトイレ、と告げて抜け出た廊下で、履歴からショートカットで番号をダイヤルすると2コールも鳴らさずに相手が出た。 どうやらかけてくることが分かっていたらしい。 「ハルヒなら脳天気にパソコン弄りまわしてるぜ。機嫌悪そうには見えないんだがな」 『…あ、いえ、今日休んだのは機関の方で事務手続きがあったもので、それで』 スピーカー越しだからか、いつもより低く少し掠れて聞こえる古泉の声の後ろに車の走行音が混じっていた。例の黒タクシーで移動中なんだろう。 『ご心配をおかけしてすみません』 「…なんで俺がお前の心配をするんだよ」 『おや、違うんですか』 「俺はただ、明日の予定のキャンセルを申請したいだけだ」 区切るようにして告げると、受話器の向こうで古泉が小さく笑った。 『何と言うか、やはりあなたですね。…行く気がないのなら当日黙ってドタキャンしたら良いのに』 お前が待ちぼうけして無駄骨折る手間を省いてやってるんじゃないか。 『とにかく明日のお昼、僕は駅前に居ますので』 「おい」 『来るか来ないかは、…そうですね、あなたの自由と言っておきましょうか』 無駄に爽やかな声の端々に、無言の威圧を感じる。 ちらりと脳裏を例の画像が過ぎった。思い出したくもない。 来なければどうなる、などと口に出さなくても、古泉の台詞は充分脅迫の色を含んでいる。出るとこ出た時の為に奴との会話は録音しておくべきかもな。強姦罪プラス脅迫罪でも追加起訴した時言質にしてやる。 『お話したいこともありますし…部室ではちょっと無理なので、ね』 含みをもたせた声で、囁くように言う。お前の言葉の裏なんぞ読まんぞ。 なんせ俺はお前の友達でもなんでもないからな。 通話はそれで終了だ。 俺は痒いわけでもないのに後頭部をがりがり掻きながら、忌々しい思いで夕暮れの曇り空が広がる廊下の窓を見つめた。 絶対行ったら駄目だ、行けば後悔する気がすると考える一方で、明日の正午、駅前へと向かってしまうだろう自分が易く想像できたのも事実だ。 明け方から降り始めたらしい雨は、日が高い時間帯になっても止む気配はなかった。 予報も終日けっこうな降水確率の雨マーク、お出かけの際は傘をお忘れなく、とブラウン管の中でお天気お姉さんが微笑んでいた。 秋雨が冷えた空気を連れて来たのか、少し肌寒い。 どんよりと雨雲が落ち込んだ空は、そのまんま俺の今の心境だ。 普段ならとっくに授業の始まっている時間になって、ようやく俺はのろのろと起き出し、遅い朝食をすませ、午前中の殆どをシャミセンが妹にいじり倒される苦行に耐えている様子をぼーっと眺めて過ごした。 午前11時。 俺は盛大にため息をつくと、本意でない外出に赴くべく身支度を始めた。 「あれ?キョンくんお出かけするのー?」 外は雨ですよー、と、妹がシャミセンのふくよかな腹に指を埋めながら言う。 「あーちょっとな」 誰とどこに行くのか、ハルヒは来るのか、自分も連れてけなどとまくし立てる妹に適当に生返事をして上着を羽織った。 この雨じゃ自転車は使えないな。 改札を出て雨のそぼ降る駅前のロータリーを見回すと、バス降車場所があるアーケードの軒下で雑踏を避けるようにして、いなくてもいいのに奴は待っていた。 まだ11時10分前だ。 2分でも遅れたらなんだかんだと理由をつけて帰ってやる、と思っていただけに残念というか、腹立たしいというか、肩透かしを喰らった気分で俺は心中舌打ちをした。 ハルヒの手前時間厳守なのではなく、元から几帳面な性格ってことか。 重い足取りで歩み寄ると、十メートルほどの地点で古泉がこちらに気付いた。 笑顔を作るな気色悪い。 「来て頂けたんですね」 お前が脅したんだろ。 半眼になって睨み付けると、そんな俺の精一杯の攻撃など蚊に刺されたほどにも痛くありませんとでも言うかのように、軽やかに肩をすくめてみせる。 「僕はどちらを選ぶのもあなたの自由だと申し上げたかと思いますが」 うわ、切実に殴りたい。 「……どういうつもりかは知らんが、映画を見るだけだぞ。見たらすぐ帰るからな」 「ええ、わかってます」 嬉しそうに言うな。畜生。 駅前から程なくの場所にあるショッピングモールに内接する映画館まで、古泉と肩を並べて歩いた。 雨はまだ傘を撫でる程度には降り続いていて、大通り沿いに林立する建物もアスファルトも、淋しげな灰色に濡らして染め上げている。 何が悲しくてこんな雨天の休日、男二人きりで映画なんぞ観に行かなくてはならんのか、甚だ疑問だ。 どうせなら古泉のポジションは朝比奈さんあたりにお願いしたい。 二人でお喋りしながら並んで歩いて映画を観る。朝比奈さんなら「わあ、とってもレトロな映画館ですね!」くらいの感想を可愛らしく述べてくださるだろう。そして映画の感想を話しつつ飯でも食べて帰れば完ぺきじゃないか。パーフェクトな高校生の健全デートだ。 そう妄想を展開したところで、これから古泉と行う行事がまさにそのデートを踏襲している事実に気づいて鬱になった。 複合施設までの短い時間、古泉がどんな奇しい発言をしてくるかと気構えていたのだが、意外なことに振られるのは普通の話題ばかりだった。クラスがどうとか、今度のテストがどうとか、当たり障りのない世間話。 歩道の凹凸に出来る水溜まりを踏むうちに、スニーカーが水を吸って重くなる。 「…お前、何を企んでるんだ?」 「別に、何も」と、滴をはじく透明なビニール傘の向こうで、古泉が笑んだ。 「あなたと映画を見たいだけですよ」 土曜日の昼、結構な盛況ぶりのホールは人が溢れていて、上映十五分前に着いた頃には席は殆ど埋まっていた。 自由席だから仕方がない。左寄りの一番後列が、ちょうど二つ席が並んで空いていて、俺達はそこに陣取ることにした。 廻りはカップルが目立っていてなんだか訳もなく腹が立ってきたが、純朴な男子高校生が友人同士で連れだって観ても何等不思議はあるまい、と溜飲を下げる。 脅してまで行きたがっていたわりに、古泉は観る予定の作品について何の前知識もないようだった。 「何も知らないで見たがってたのかよ、お前」 「ええ…まあ、タイトルくらいは知っていましたが」 古泉のポケットから取り出された前売りの半券には、今秋公開の映画作品の中では指折りの話題作のタイトルが書いてある。 何てことはない王道を行くようなハリウッド製のSF映画だが、テレビや雑誌でも盛大なプロモーションを打っているので、大多数が粗筋くらいは知っているだろう。 俺も観たいとは思っていたから、古泉から誘われた時には二つ返事で了承した。 奴のオゴリだったしな。 「変な奴だな。普通わざわざ映画館まで見に行くなら、出てる俳優が好きとか、あの監督作品だからとか何かしら理由があるだろ」 「ふふ、そうですね。…強いて言うなら、あなたと映画に行くという行為を体験してみたかったんです」 なんだそりゃ。 うろん気に古泉を見遣ると、いつもなら直ぐに視線に気付いてこちらを向く微笑が、今はうつむき加減に前方のスクリーンを見つめる横顔のままだった。 「休日同級生と待ち合わせて映画に行く。…なんて、実に若人らしいじゃないですか。 やってみたかったんですよ。そういう、普通の高校生らしいことをね」 普通の、というセンテンスが、古泉の口から出るとやけに引っ掛かる。 若人なんて年寄りじみた言い回しをするから、現役高校生らしく見られないんじゃないか?という台詞は何となく、口には出さずにおいた。 「そういえば…電話で言ってた、部室じゃできない話って何だ?」 ふと思い出して切り出すと、ああ、と返事をしたあと常に明朗な古泉の唇が、めずらしく躊躇うようにさ迷った。 「映画が終わってから…お話しましょうか」 ホールの照明が消え入るように落ちるのと、古泉がそう呟くのとは殆ど同時だった。 ---------------------------------- update:07/10/23 |