今月から公開のあの映画のチケットが二枚あるんですが、ご予定に差し支えなければ一緒に行きませんかと言う台詞に、彼が数秒の間もおかずに了承の返事をしたことは、僕にしてみればこれまでに見た彼のリアクションの中で三本の指に入るほど意外な反応で、いささか面食らった。

 これまでの経験上彼ならばきっと苦虫をかみつぶしたような表情をして即断るか、そうでなくとも渋るような返答をするに違いないと予想していたのだが、よもや即決は即決でもその場ですんなりOKされるとは今までに一度もないパターンだ。
 僅かに目を見開いて彼の顔を見つめていると、僕に対しては何故か視線を交わすことが得意でない彼がいつものように「じっと見るな」と嫌そうに言った。

 「すみません」

 一応眉尻を下げ取り繕うと、彼から視線を剥がして横の自動扉の窓外に向ける。
 
 下校時間帯の通学路線。
 いつものように八両編成の三両目、いつもの乗り場から車輌に乗り込み、席が空いていようがいまいがこうして二人で電車に乗るときにはたいていホーム側とは反対のドア前に居場所を陣取るのがいつの間にか通例になっている。
 彼がそうしているように、八人掛けの長椅子の端、彼と向かい合わせで手摺りに寄り掛かる。等間隔で後方に流れていく電柱の影とその向こうに広がる、見馴れた通学電車からの景色。傾いた夕陽が窓から差し込んで、彼のブレザーの裾に夕暮れ時特有のコントラストをおとしている。

 「てっきり断られると思ってました」
 「断った方が良いなら今からでもそうするぞ」
 「そういう意味じゃないですよ」

 ちょっと意外だっただけで、と微笑むと、癖のようにしかめられた眉間にさらに力がこもる。僕が上っ面で口角を引き上げているのがもはや習性に近いように、彼の仏頂面もそういった類のものなんだろう。本気で僕の言動に嫌厭しているのでなければ。

 「お前がそういうことを言い出すのが珍しかったからだ」
 「おや、そうですか?」
 「一度もないだろ」

 実際、これまでに彼と週末のミーティングを除いてプライベートで会ったことは全くない。それは彼を誘い出すような口実もなければ、勿論、彼が貴重な休日を僕と過ごすなどという酔狂を許諾するはずがないという推論もあったからなのだが。

 「お誘いして断られるのも悲しいですからね」
 「場合によりけりだろ。…映画を見るくらいなら別にかまいやしないぞ」


 降り口は左側、三番ホームに到着です、と車内アナウンスが流れる。
 同時に、車速が次第に落ちていく。


 「でも、お前がSF好きとは意外だな。あんまりああいうわかりやすい勧善懲悪なストーリーは興味なさそうだと思ったが」
 「ふふ、そうですか。どんなジャンルが好きそうに見えます?僕は」
 「恋愛映画って柄でもなさそうだしな。小難しい推理モノとか、サスペンスとか…というか、映画とか見に行くんだな、お前も」
 「そりゃあ、たまには息抜きもしたいですからね」

 とはいえ、そう頻繁なことではないのも確かだ。
 取り分け、この三年間はリアリティのかけらもなくなってしまった現実に手一杯で、フィクションの世界に娯楽を求める気にもならなかった。それ以前はどうだったか、覚えていない。

 「お前さ」

 電車がホームに進入する。
 ゆるやかに失速し停止するまでの間、彼は紡いだ台詞の途中で発条が切れたかのように唇の動きをとめた。

 「…どうかされました?」
 「別に」

 視線が合う。
 彼は一瞬どこか物言いたげな目で僕をじっと見つめたあと、硝子から差し込み顔を照らす夕日にまぶしそうに双眸を細め、


 「…そういうことも知らないんだな、と思っただけだ」


 明確な主語の抜けた台詞の真意を問う前に、ドアエンジンの圧縮空気が
 抜ける音とともに扉が開き、

 会話はそこで途切れた。











メランコリック・ブルー 7.5




















 ホームに降りた瞬間に携帯が鳴った。

 かけてくることは先に届いたメールで分かっていたが、どこからか監視してるんじゃないかと思えるようなタイミングだ。
 小さく息を吐くと、ポケットから携帯を取り出し通話ボタンを押す。
 こうやってかかってきた電話に出る時もはや相手先を確認すらしないのは、してもしなくても同じだからだ。それが良かろうと悪かろうと、電話口から齎される情報は変わらない。
 予想通りスピーカーから聞こえてきたのは森さんの涼やかな声だ。
 それが当たっていたからといって嬉しくもなんともないが。


 『引き継ぎに関わる手続きがあるの。すまないけれど明日、本部に来て貰えるかしら。学校の方は他の諜報員に頼んでおくわ』


 どうやら良くない分類のニュースだったらしい。
 ただでさえもう暇がない彼と共にいられる時間が、更に一日削られることになった訳だ。

 「…わかりました」

 努めて平坦な声で返事をする。
 許諾を伺う語形ではあっても、この場合、僕のほうに選択権はない。
 

 『彼には、もう知らせたの?』
 「え?」

 あなたが任務から外れることを、と森さんの声が区切るように紡ぐ。

 『どちらにしても人員交代は彼にも知らされるわ。後任が監視に就くのに、出来れば彼の協力を得ていた方がいいでしょう。あなたからも頼んでおいてもらえるかしら』
 
 「………………」

 あの綺麗な唇で、何とも残酷な言葉を発するものだ。
 僕の彼への心情を承知の上で命令しているのだとしたら、彼女も相当人が悪い。
 焦がれて尚、本当の気持ちを伝えることも許されず、黙って手放さなければならない想い人に、自分の代替品がやってくるので宜しくしてやって欲しいなどと。

 言えるわけがない、とは言える筈もない。

 ホームから改札口へ下る構内の階段で足を止めた。
 電車が過ぎ去ったあとのまばらな人波が、僕の身体をすりぬけ行き交う。
 いつも通る、少なくともこの数ヶ月で通いなれたはずの路が、ふいに知らないどこかであるような錯覚を覚えた。






 「………わかりました、彼に、伝えておきます」























 部屋へ着くなりリビングのソファに鞄を放り投げ、寝室に直行する。

 普段ならきちんと部屋着に着替え制服を皺にならないようクローゼットにかけることが帰宅後最初の作業である筈だが、今日にいたってはそうする気になれず、そのまま倒れこむようにベッドに転がった。
 取り立てて疲労を感じていたわけではなかったが、いや、横になった途端身体が鉛のように重さを増したところを見ると知らず疲れが溜まっていたのかもしれない。
 仰向けになって目を閉じると、シーツに四肢がのめりこんでいくような重力を感じた。
 額に当てた手首から、時計の秒針が刻む音がやけに響いて聞こえる。
 そうやってしばらく寝転がっていて、いっそこのまま眠ってしまいたいとも思ったが、やはりブレザーが皺になってはいけないと一旦考えてしまうともうそのことが気になってしまって眠れず、僕は溜息をついて鬱蒼と上半身を起き上がらせた。
 脱いだブレザーをいつものハンガーにかけ、いつものようにクローゼットにかける。
 その几帳面とも言える作業が、僕自身のもともとの性分なのか、それともそれが涼宮さんの望む古泉一樹のキャラクターなのかは最早区別のつくところではない。

 ネクタイも外しベッドに放り出すと、デスクトップパソコンの置いてある
 デスクへと向かう。

 散乱したファイルやら書類は、全部機関への報告の為のものだ。
 さっきも通話の切り際、これも彼女の口癖になってしまった報告書の催促を受けた。
 どちらにしたってもうあと二週間ないしで監視任務を解かれるというのに報告もなにもあったものではない、とも喉まで出かかったが飲み込んだ。仕事は仕事だ。
 とはいえ、ここ最近の涼宮さんの動向はいたって平穏でこれといって書くこともなく、文面に苦心している間にずるずると提出期日が延びていっていたのだが、いっそのこと「変化なし」の一行だけ書いて提出したら森さんはどんな顔をするだろうか、それも見ものかもしれないなどど、余計な想像を展開してしまうのも無理はないというものだ。
 こうも頻繁に誰が読むのかわかりもしない報告書を書かされ、悪いときには提出先の所轄が違うのか複数の種類のレポートを書かされたりもする。いっそノンフィクション作家に転向するのもいいんじゃないかと自棄になるほどパソコンに首っぴきで取り組まねばならないあたり実に非効率的な方法だと思うが、この場合どこの組合に訴えるべきか判断がつきかねるので黙っている。
 
 デスクトップの電源を入れる。これももはや日課だ。
 HDDの起動音とともにモニタが一瞬明滅するのを、椅子にもたれたまま眺める。
 一瞬真っ暗に落ちた画面に、どこか疲れた自分の顔が映った。

 監視という名目で学校に通い、放課後は文芸部室に顔を出す。
 夜はこうやって機関への報告を纏め、たまの休日はSOS団のミーティングに費やすか、そうでないときは何をしたらいいのか手持ち無沙汰になるほど他にすべきこともない。
 それが今の僕の数ヶ月で構築されたルーティンワークだ。
 それ以前はどうやって過ごしていたか、僕は覚えているはずなのに、それがまるで客観的な出来事であったかのように体感した過去という現実感を持たない。

 過去と今とでの違いといえば、周囲の環境も僕自身もずいぶん変化したから多様にあるが、この数ヶ月にあってそれを除いた三年に決定的にない要素といえば、それはSOS団と、そして、彼の存在だろう。
 判で押したような毎日を退屈だと感じる暇さえなかったのも、例え真夜中に閉鎖空間が現れ無睡のまま登校する日が続こうと、それを何もかも放り出したいと思わなかったのは、僕がこの監視という任務をいつからか仕事とは思わなくなっていたからだ。
 それくらいに、僕は今現在の生活を居心地よく感じている。

 そして、彼も。
 
 よもや彼が自分のすべてだなどと陳腐な台詞など吐くつもりはない。
 でも、これまではその存在すら知らなかったからそれがなくとも平衡を保てた。

 でも、知ってしまった今は?


 OSが立ち上がって、デスクトップの青白い光が網膜に映り込んだ。
 エディタを開く気にはなれなくて、ただぼんやりとモニタを見つめ、思考する。


 この仕事から離れたら、僕はどうやって過ごしていくのだろう。
 大方機関に戻ったあとは別のセクターに回されることになるのだろうが、僕はそこでいったい何を考え、何を糧に日々を過ごしていくのか。
 彼のいない日々を、過ごしていくのか。
 何故か、皆目想像もつかなかった。






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update:08/1/8



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