「恋人はいるんですか」

 と、たわいもない世間話のついでのように聞かれたのは、歓迎会と称して催された酒宴の席でのことだった。
 そう尋ねてきたのは、配属部署でも取り分け有能で通った年若い部長で、男の目から見ても掛値なしに甘いマスクに穏やかな物腰、これで仕事も出来るとくれば世の女性がこぞって放ってはおかないだろう。

 「そんな人、いませんよ」

 もう長いこと、と笑うと、そうですか、と返事をしながら向こうも微笑んだ。
 ちょっと勧められるがままにビールのグラスを空けただけで情けないほど赤くなってしまう自分とは反対に、部長はといえば琥珀色のアルコール度数の高そうな中身を、顔色も変えず傾けている。
 酒にも強いなんて本当に、天はお気に入りの人間に二物も三物も四物も与えるものだと、よもや羨望を通り越して納得すら覚えた。
 それきりふつりと途切れた会話に、周りのやや出来上がり気味の騒がしさが逆に居心地が悪く感じて、

 「すみません、トイレに」

 そう言って席を立った。














not in business





















 空調の効いた座敷のフロアから離れると、通路は冷んやりとしていて火照った顔に心地よかった。
 用を足し、手洗い場に向かうと明らかに酔ってますと言わんばかりに情けない顔の自分と目があう。
 喧騒から離れひとりになるなり、どっと気疲れがのしかかってくるような気がした。
 元来こういった、大勢で集まって騒ぐ場というものが苦手なたちでもある。それでも気ままな学生時代の、サークルやら何やらの集まりとは訳が違う。これも仕事のうちだ。
 あと一時間もすればお開きになるだろうからそれまでの辛抱だと、芯がふやけたような頭でぼんやりと考えた。もともとアルコールにはとんと弱い。もう少し過ごしてしまっているかも知れない。


 「大丈夫ですか」


 シンクに手をついて、溜息をつこうとした瞬間、声をかけられた。
 はっとして入り口に目を向ければ、そこには先程まで会話していた古泉部長が立っていた。

 「…あ、すいません、大丈夫で…」
 「無理はなさらないほうがいいですよ、あまりお酒が得意ではないようだ」

 わざわざ様子を見に来てくれたんだろうか。
 そういえば、業務中も何かにつけ声をかけてくれたりもする。自分の下の新しい部下が、円滑に仕事に馴染めるようにとの配慮だろうが、本当によく気の回る人だ。

 「いえ、あの…すいません」

 何と言ったものか、気の利いた台詞なんてまるで出てこなくて曖昧に返事をする。思えば、部長とこうやってふたりきりになる、という状況はこれが初めてだ。

 「ありがとうございます……すぐ、戻ります」

 すいません、とまた何に対するものかわからない詫びを口にしながら、フロアに戻ろうと、部長の横を摺り抜け洗面所の入り口から出ようとした瞬間、肩に圧力がかかった。

 「あ……!?」

 ぐい、と強く押されて、それが何事なのか認識出来る前に、酔っ払って覚束ない足元がふらつきバランスを崩す。
 やばい、転ぶ、と身を固くしたものの衝撃はやってこず、かわりに背中がタイル張りの壁に押し付けられた。ゆらゆらして定まらない視界に、部長の、色素の薄い柔らかそうな髪と調った鼻梁が、残像のようにぶれて映る。

 「……っん、……、…!?」

 柔らかい感触が、くちびるに触れた。
 ふれた、と思ったそれは、すぐにその優しさを潜めて、塞ぐ、といった表現がぴったりくるような深い激しさを滲ませる。
 何だ、これ。
 事態がまるで飲み込めずに、何だこれ、とそればかりが馬鹿みたいに頭の中で往復した。
 顔を固定するように掌でおとがいを捉えられ、くちびるに押し付けられたものが部長のそれであるということを認識できたのは、唇の隙間から歯列を割って、ぬるりとしたものが咥内に侵入してから漸くだった。

 「っん、う、…ぅう…!?」

 温い温度をもったそれが、舌に絡み付いてきて呻いた。びり、と微電流が流されたみたいに身体がびくついて、ろくに入っていない力が膝から抜ける。
 これはもしかして、いやもしかしなくてもキスなんじゃなかろうか。
 入り込んでいるのは部長の舌なんじゃないだろうか。
 部長に、キスされている?何で。
 頭がまるで働かない。じわりと舌の上に、口にしたこともないような苦い、アルコールの味が広がる。何だ、これ。

 「ん、……ふ…!!」

 上あごをなぞられるとぞくぞくとした愉悦が走って、びくんと跳ねた腕で、思わず手近にあった部長の肩にすがった。
 それと同時に、口の中を好き勝手に犯していたものがゆっくりと抜け出る。
 目は開けっ放しでいたので、部長のやたら長い伏した睫毛が0コンマの距離から離れていくのが、呆然としたままの視界に写った。
 包むように触れられた頬が熱くて、とにかく頭がぼーっとして、ぐっと密着するように身体を寄せられ耳元でいくつか低く囁かれた言葉は、その意味を咀嚼できるほど頭の深部には届いてこず、そのあと部長が微笑みひとつ残して去っていくまで、俺はただその場にまっすぐに立っているのが精一杯だった。
 自分が置かれている境遇すら、認識できないまま。






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続いてしまった部長シリーズ\(^0^)/


update:08/4/27



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