病める時も、健やかなる時も 2





 「ただいま帰りました」


 そう微笑みながらリビングに入ってきたのは、
 ダークグレーのスーツを身に纏った古泉だった。

 高校のブレザーとは違う、社会人然としたその出で立ちに思わずどきっとしてしまう。
 いや、初めて見るわけじゃない。
 まがい物ではあっても、記憶の中では何度も見ていた。
 いつもクローゼットの片隅にかかっていたそのスーツに見覚えがあるし、二日前にそれを支度してやって送り出したのは外ならぬ自分だ。

 「…あ、お、お帰…り」

 時計を見ると、もう夕方六時を廻っている。
 そんなに長い時間考え込んでいたのか。

 「ごめん、すぐ飯の用意するから」
 「ああ、そんなに急がなくてもいいですよ」

 昼食が遅かったので、と言いながらネクタイを緩め、古泉が寝室に向かう。
 帰って来たら真っ先にスーツをかけろ、皺になるからと口を酸っぱくして言っていた俺の注言を遵守しているからだ。
 俺はソファから立ち上がると、そのあとにつられるようにしてついていく。

 「…お疲れさん」
 「さすがにちょっと疲れました。久しぶりの定例報告だったので」

 普段は俺と同じ大学生である古泉がこんなスーツを着て出掛けていたのは、機関の仕事の為だ。たまにしか着ないのに違和感なく着こなせるあたり、なんだか嫌みに思えてくるのは俺の僻みか。

 ハンガーにかけたスーツをクローゼットに仕舞った古泉の腕が、そのままこちらに伸びてくる。大きな掌が背中に絡んだかと思うと、やさしく腕の中に抱き込まれた。
 きっちりプレスのついた真っ白いシャツに顔を埋めると、
 よく知る古泉の匂いがする。

 「すみません。結婚したばかりだというのに早速一人にしてしまって」

 そう申し訳なさそうに囁く古泉に、ああ俺とこいつは本当に結婚したことになってるんだ、と改めて痛感する。
 いや、それがハルヒの気まぐれが起こした間違いなのだと気がつくまでは、俺自身何を疑うことなくその事実を受け入れていたわけだから末恐ろしい。

 しかし、古泉はまったく気がついていないんだろうか。

 そういう面に関してはやたらと賢しい奴だから、俺が気付いたということは、これまでの経験則上とっくに察していてもおかしくない筈だが。

 「別に…だいじょうぶだ。仕事なんだし、仕方ないだろ」

 もし古泉が何も気がついていないのだとしたら、
 今下手なことを言っても妄言と思われるだけだろう。
 当たり障りのない返事を選ぶと、古泉は困ったような笑顔でまたすみません、と謝り、ぎゅっと痛まない程度に腕に力をこめつつこめかみにキスしてきた。

 「……っ」

 その何気ない仕草が甘ったるく感じるほど優しくて。
 高校生の奴とは何だか少し違って、大人っぽい余裕さえ感じられる愛撫に調子が狂わされる。見た目はそう変わっていないんだが、三年もたつと古泉はこんなふうになるんだろうか。

 「……っ、飯、作るから…先風呂、入ってこいよ」

 もがくようにして抱きしめてくる腕から離れると、
 古泉は一瞬きょとんとしたあと、

 「わかりました」

 すぐにふわりといつもの微笑を浮かべた。
 そそくさと先に寝室から出ると、火照る頬を掌で覆いつつキッチンに向かう。
 不自然に思われただろうか。

 あの古泉は、俺の知っている古泉自身だということはわかっている。
 ややこしいが、元の世界で俺が付き合っていた古泉の、世界改変後の姿なのだろう。
 あまり考えたくないが、以前長門が暴走した時と同じ、俺の記憶だけ残ったまま丸々世界が変わっている可能性もあるわけだが、今回は俺と古泉が同性にも関わらず婚姻関係にあるという点と、時間が三年一ヶ月未来であるという点を除けば、誰かの存在自体が消されたり、消えた奴が蘇ったりと強引に捻じ曲げた変換をされているわけではない。
 どちらかというと、元の世界をそのまま早送りしたらこんなふうになるだろうというレベルの変化だ。ケッコン云々は除けて。

 何にせよ、こういうときは長門に頼るしかあるまい。

 長門はハルヒ達と同じ大学の人文学部に通っていることになっている。
 もし長門が普通の女の子になっているなどという最悪の超展開が待っていなければ、今回も何らかの解決策を立ててくれるだろう。
 いずれにせよ、今更じたばたしたところで詮無いことだ。
 長門にはあとでメールを入れて、明日にでも時間を作ってもらおう。
 我ながら驚天動地の事態であるわりに思考が冷静なのは、もはやこういった状況に対して脳内マニュアルが出来つつあるからだろう。別に慣れたくもないが。
 今までだって散々な目に遭ってきたが、結局のところ落ち着くところに落ち着いてきたのだ。今回も何とかなるだろう。そう楽観視しておかねば気が持たない。

 そう決めると、俺は夕食の支度をすべくエプロンをつけた。























 ふたりきりの夕飯の最中、古泉が記憶の端でも思い出してはいないか探るような話題を振ってみたが、芳しい結果は得られなかった。


 湯船につかりながら、俺は盛大に溜息をつく。
 頼むから、俺だけが元の記憶をとどめている事態だけはもう勘弁してほしい。
 これで万が一誰ひとりとして改変前のことを覚えてなくて、俺の頭がオカシイということになったら、本気でどうしていいかわからんぞ。
 それとも、本当にこれが作られた未来だというのが俺の妄想だったとしたら?

 「……いいや、ありえん。あり得んぞ」

 客観的に判断して、一可能性として否定する材料は今のところないことはわかっているが、断固として認めたくない。たとえ一万歩譲って日本国憲法で男同士の婚姻が認められていて、まかり違って俺と古泉が結婚したとしても、ヘテロセクシュアルが生物学的に主流である以上それを堂々とカミングアウト出来るほど、俺は潔い人間でないと確信しているからな。

 難しいことを考えていると段々とのぼせてきて、俺は慌てて湯船から出た。












 風呂から出ると、リビングに古泉はいなかった。
 自ら買って出てくれた食器の後片付けもきれいに終えられている。


 疲れていたようだし、もう寝たんだろうか。


 タオルで濡れたままの髪をぬぐいながら寝室へ向かう。
 もう寝入っていたら悪いので、できるだけ音をたてないようにドアを開けると、室内の電気は消されていて真っ暗だった。
 一歩中に足を踏み入れた瞬間、

 「おわッ…!!?」

 いきなり横から伸びてきた腕に肩を掴まれる。
 びっくりして思わず素っ頓狂な声が上がるのもかまわず、強く横に引っ張られ、俺はたたらを踏むようにしてよろけた。そのまま視界がぐるりと回る。

 気がついたら背中がベッドについていた。

 真上に覆いかぶさっている影が誰であるかはもはや確認の必要もない。
 光源のない部屋にわずかにカーテンからもれる外の明かりで、漸くうっすらと輪郭がわかる程度の状態で、俺は半眼になって低く呻いた。

 「……なんのつもりだ」
 「何の、とはつれないですね」

 顔がみえなくても、古泉が笑っているのが気配でわかった。

 「二日も離れていたんですよ?幸い明日は休みですし、ね。
  …いいでしょう?」

 何がいいんだ。ちっともよくない!

 「おや。あなただって寂しかったんじゃないんですか?」

 くすくすと喉で笑いながら、古泉の手が着ていたスウェットを捲り上げてくる。
 風呂上りの肌に少し体温の低い、大きな手のひらが這って、俺は無意識にぶるりと身体をふるわせた。

 「そんなわけ…っあるか!ッ離…!!」

 古泉を引き剥がすように手を突っぱねて身を捩じらせると、

 「ふふ、そんなふうに嫌がるあなたは久しぶりですね。
  なんだか高校の頃を思い出します」

 耳朶に口づけられ、途端に力が抜ける。
 抜けたところを見計らったように、もぐりこんだ手が指先で乳首を摘んだ。
 同時に、無理やり脚の間に身体を割りこませた古泉の太腿が、布越しにぐっと擦るように局部を押し上げてくる。

 「ひ…っ!!」

 びりっと鋭い快感が背筋を走って、思わず喉からかみ殺しきれなかった声がもれた。
 可愛いです、と甘く囁かれ、いかん、これじゃ据え膳になってしまう!


 「馬鹿っ、嫌…だ、やめろ、こいずみ……!!!」


 図らずも、近所迷惑になりそうな大声が出た。



 「…古泉?」



 ぴた、と古泉の動作が止まる。
 唐突に止んだ強引な愛撫に、俺も思わず抵抗する力を抜いた。

 「懐かしい呼び方ですね。あなた、もうずっと僕のことは一樹、と
  呼んでいらしたじゃありませんか?」


 そういやそうだった。

 特に、結婚してからは自分も古泉姓になるわけだからと、
 名前で呼ぶようにしていた。



 闇に目が慣れてきて、覆いかぶさったままの状態で、至近距離の古泉が怪訝そうな表情で俺をみつめているのがわかった。

 何だ?


 ゆっくりと、古泉の唇が言葉を紡いだ。











 「……もしかして貴方、記憶が戻ったんですか?」






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さあもりあがってまいりました(フラグ的な意味で)
次は古泉(夫)のターン!


update:08/1/15



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