事の発端といえばやはり彼から発せられた何気ない台詞だった。

 このところ無性に苛々する。それは大概において彼と顔を合わせている時、会話を交わしている時、若しくはそれらの記憶が脳裏を掠めた時に限定されていたから、別に慢性的な睡眠不足の所為でもカルシウムが足りていない訳でもなく要するに、僕は彼という存在自体に苛立っているのだと言うことを最近になって自覚した。
 ぶっきらぼうで何にも興味のなさそうな顔で僕に向かって放たれる言葉、とりわけ僕自身についてのそれは、彼にしてみれば無自覚で何ら含むところのない率直な胸のうちなのであろうが、往々において僕の神経を真逆に擦ってはささくれ立たせる。
 そう、彼の言葉はいつだって僕の心を波立たさせる。
 今日だってそうだ。
 放課後の、男二人だけ残された部室でただ暇と沈黙を紛らわすためだけのチェスに興じているさなか、

 「昨日…一緒だった女の人、誰だ?」

 まるで詮議するような視線を一瞬向けたあと、それをきまりが悪そうに移ろわせながら彼が小さく呟いた。
 昨日、と言われてすぐに思いあたったのは、森さんの代理でやって来た機関のエージェントだ。報告の為に彼女と一緒にいた短い間を彼に見られていたのだろうか。
 それにしたって決して機関の影を涼宮さんは無論、周囲の人間にも悟られることのないよう彼等の行動圏内を避けるよう場所は選んでいるのだが。

 「知り合いですよ。偶然会ったので」
 「偶然って、ホテルの前でかよ」

 そこで初めて顔を上げて彼を見ると、眉を顰めて咎めるような目でこちらを見つめてくる。或いは咎める、というのは僕の思い違いかも知れない。だが、ざわりと背中が撫でられるような錯覚がした。錠が落ちるように一旦はまり込んでしまうと、この苛々はなかなかどうして容易く抜けてはくれない。

 「…いくら同じ団員の誼みとは言え、プライベートに口出しされるのは良い気分は致しませんね。まさか僕の尾行でもなさっていたんですか?偶然通り掛かるような場所ではないと思いますが」
 「………………」

 まさか図星だとは思わなかった。
 が、そのまま黙り込んでしまった彼の様子を見る限り、実際のところは当たらずも遠からずなのかもしれない。それこそ虫酸の走る話ではあるわけだが。
 パイプ椅子の背もたれに体重を預けてわざとため息をつく。

 「どういうおつもりかは計りかねますが、止めていただきたいですね、今後は」
 「……あの人と付き合ってるのか?」

 手の内の白のポーンを指先で転がしながら、俯いた彼がまた呟く。

 「貴方には関係ないでしょう」

 昨日会っていた女性が僕の何であろうが、付き合っていようがいまいが貴方には一切関係がない、例え僕がプライベートの時間に女性と会っていようが何をしていようが、貴方にそれを詰問する権利はないと思いませんか、と抑揚少なく告げると、彼は一層眉間の皺を深くして、どことなく泣き出しそうな表情になった。

 「知りたいってだけじゃだめなのかよ」
 「…どうしてそんな事を知りたいんです」
 「お前が、好きだから」

 すきだから、と口の中で潰れて消えた語尾は不明瞭ではあったが、彼ははっきりそう言った。好きだから?何を言っているんだ、彼は。

 「………貴方、ゲイなんですか?」

 かっと顔を赤く染めた彼が眦を吊り上げ僕を睨みつける。
 普段の彼の言動を見る限りではとてもそういう素振りは見せていなかった。
 少々淡泊過ぎるきらいはあっても、朝比奈みくる始め他の女性に対する反応は健全な男子生徒のそれだろう。
 ならば尚更、彼の言葉の意図が理解できない。

 「別に、つきあってほしいとか、そんなの思ってるわけじゃ、ない。……ただ、」

 もしあの人と付き合ってるんじゃないんだったら、そういうのはやめてほしい。

 蚊の泣くようなか細い声で彼が吐き出した台詞に、さらに理解に苦しむ羽目になった。
 大方彼は昨日のエージェントを僕の恋人か、でなくとも肉体関係のある女性だと勘違いをしているのだろうが、それだって彼にどうこう言われる範疇外のことだ。彼の言い分がその台詞そのままの意味であるとしたら、それがどんなに図々しく不躾な要求であるのかわからないほど彼は頭の悪い人間ではない。
 いい加減に心臓の裏側を蝕む苛々も臨界点に達していて、僕もまともな精神状態ではなかった、とあとから冷静になってみればそう反省するところもあった、が、売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、最終的に、

 「じゃあ貴方が代わりになってくださるんですか」

 という僕の台詞に、面食らった表情を浮かべた彼がやや間をおいたあと、お前がいいなら、頷いてしまったことがそもそも、間違いなのだ。

















ワンダリング



















 首肯した彼が本気だとは思わなかったし僕も勿論そうだったから、どうやらゲイでもないらしい彼に男が男と寝る、ということがどういうことなのか生々しい現実を思い知らせてやれば彼も怯えて二度と馬鹿なことは言い出さなくなるだろうと思い、その場で部室のパソコンからネットで検索し、男性同士のセックスのハウツーから際どいサイトまで閲覧させている間、ずっと彼は黙ったまま表示される画面に赤くなったり青くなったりしていたが、やっぱりやめる、の一言はとうとう言い出さず仕舞いだった。
 無論勢いで口にしてしまった台詞であっても、出してしまった以上引っ込みがつかないのは僕も同様で、パソコンの履歴を完全に消去したあと彼を連れて部室を後にした。
 立ち寄ったドラッグストアで避妊具やらローションやら、調べたうえで必要なものを買って来るよう現金を渡し命じても、彼は黙ってそれに従った。悪い冗談としか思えない。

 そうして不穏な中身のビニール袋と無表情で押し黙ったまま何を考えているのか解らない彼を、五月にここに引越ししてこの方、室内に入った他人といえば機関の人間かガスの開栓にやって来た業者のみの単身用アパートに迎え入れる羽目になる。
 夕方で、平素からカーテンの締め切ったままの薄暗く狭いワンルームに、彼は荷物も下ろさずに手持ち無沙汰に立ち尽くしたままでいた。

 「どうしました?そのままじゃ出来ないでしょう」

 ブレザーを脱ぎ、普段なら真っ先にクローゼットに仕舞うそれを無造作に椅子に投げ出すと、朝起きた時のまま、上掛けの捲れたベッドへと腰掛ける。彼が目に見えてびくん、と肩を揺らした。それでも怖ず怖ずと上着を脱ぎにかかる彼の指を白々しく眺めながら、今ならまだ引き返せるという脳内の警鐘を掻き消した。




 そうしてシャツ一枚きりになるまでたっぷり五分は費やしたであろう彼を手招き、ベッドへと引き入れる。

 「出来ると言ったのは貴方なんですから、ちゃんとしてくださいよ」

 どうやるのかはさっきちゃんと調べたでしょう?とわざとらしく微笑んでやりながら、ベッドボードに背中を預けた状態で彼に膝上を跨がせる。それだけで彼は泣き出しそうな表情を浮かべはしても、拒絶の言葉を吐くことはなかった。
 壊れ物でも触れるかのようにぎこちなく伸ばされた腕が、こちらの制服のボタンを外し、ベルトにかかる。震えて白んだ指先はバックルひとつ外すのも難儀するようだ。
 そうして寛げたスラックスの中にそろりと手指を差し入れ、まだろくに反応していないそれを引きずり出すと、ゆっくりと覚束ない手つきで扱き始める。その一連の動作はお世辞にも技巧に富んでいるとは言い難く、彼がまったくといっていいほどにそちら方面の経験がないであろうことは明白だった。だからこそなおさら、彼がこうも唯々諾々と自身を辱めるような要求に従っているのかが不思議でならない。

 「下手くそ」

 揶揄混じりに耳元で囁くと、彼は途端にむっとした表情を浮かべ身体の位置をずらして顔を伏せた。
 まさか、と思うより早く、ぺちゃ、と差し出された彼の舌が先端に触れる。
 予想もしていなかった行動に驚いている間に、わずかに芯の通り始めていたそれに横から吸い付くように彼が愛撫を施す。

 「……っん、…、…」

 ぴちゃ、ちゅ、と卑猥な音を立ててそれを舐める彼は必死の様子で、恐らく感じさせようとかそういう意図ではなく、ただ馬鹿にされたのが悔しくて半ば自棄なのだろう。

 「本当に……どういうつもりなんですか」

 吐息とともに吐き捨てるように呟くと、彼はちらりと上目遣いにこちらを見遣ったあと、漸く顔を上げた。すっかり硬度を持ったそれを指先で弄ぶようにゆるゆると扱く様は、拙い口淫だろうがそれが勃起したことにわずかに安堵か満足感を覚えているように見えた。

 「それで、あとはどうするんです?まさか舐めて扱いて終わりじゃありませんよね」
 「………………」

 意地悪い口調で促すと、濡れた唇を無造作に手の甲で拭いながら、彼が床に放り出したままだったドラッグストアのビニール袋に手を伸ばす。中から派手な蛍光色の箱を取り出すとパッケージを開け小包装されたそれを取り出し、慣れない手つきでビニールを破る。
 恐らく女性とも経験がない彼がそれを扱うのは初めてなのだろう、苦心しながら漸くそれを勃ち上がったそれの根本まで装着するのをただぼんやりと眺めていた。

 「ちゃんと濡らしてくださいね。でないと悦くありませんから」

 震える手でローションを掌にあける彼にわざと酷い言葉を選んでぶつけると、悔しそうにその唇を噛みながらも反論も罵倒もせずに手を自ら後ろへ伸ばす。

 「…っう、……」

 僕からははっきりと見えない彼の脚の間で、指が密やかに動くのがわかった。
 時折ぬち、とローションの擦れる粘ついた音がする。ややもして、彼がぐっと眉をたわめて見る間に辛そうな表情を浮かべた。
 セックスですら未経験だとしたならば、自分で其処に指を入れるなんて経験がとてもあるとは思えず、ただ苦痛でしかないはずだ。それでも慣らそうと何度か指を往復させていたのか、ぬちゅぬちゅと控えめな音が聞こえていたが、すぐにそれも止んだ。俯いた彼が次第に大きく肩を震わせ始める。

 「う…っ、く、……」

 ぽた、と彼の顔からおちた滴がシャツに染みて、ああ、とうとう泣いたな、と感慨もなく思う。

 「泣くほど嫌なら、最初から出来るなんて言わないで下さいよ」

 大きく息を吐くと、彼がすん、と鼻を啜りながら、

 「…だって、し、しなかったら、…別の、…また、っき、昨日のひとと、するんだろ…、…」

 ぐずぐずと泣きながら、嗚咽混じりに訴える。
 甚だ理解に苦しむ。彼がそうまでする理由がまるでわからない。
 彼は僕を好きだと言ったけれど、同性愛者でもない彼が自ら矜持を棄てるような真似をして、付き合って欲しいでもなければ目的は一体何なのか。そして何より僕自身は彼に対して恋愛感情は皆無と言っていいにも関わらず、現状はすでに洒落にならないところまできている。
 段々面倒臭くなってきて、未だにしゃくり上げ続ける彼の肩を掴むとそのまま力任せに後ろへ引き倒した。
 涙で濁る瞳を瞬かせて、彼が僕を見上げる。
 その目にすら苛立ちを覚えて舌打ちした。


 「そんなに女のように扱われたいなら、やり方を教えて上げますよ。ちゃんと覚えてくださいね」




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update:09/11/28



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