柄にもなく焦っていた。
どこか病気なんじゃないだろうか。いや怪我をしているのかもしれない。
忙しなく荒い呼吸を繰り返しながら時折苦しげに呻いている。
いや、僕自身の話ではない。飼い猫の話だ。
「どうしたんです?どこか痛いんですか?」
頭を撫でながら聞いてみても、力無く首を振るばかりで要領を得ない。
ベッドにぐったりと横たわったかと思えば、落ち着きなく部屋の中をうろついたり。一緒に暮らし始めてこの方、こんな様子は初めてだ。
散々うろうろした揚句ようやくカーペットの上に落ち着いた俯せの背中を撫でてやると、こちらがびっくりするほど身体をびくつかせて逃げる。
いったいどうしたというのか。
当の本人(?)は少し離れたテレビラックの横に丸まると、なあ、とかうう、とか呻きともつかない鳴き声を上げている。
医者に連れていこう。
そう決めて予約を入れようと掛かり付けの獣医の番号をダイヤルする。
程なく電話口に出た受付の女性に名前と予約の旨を伝えると、
『猫ちゃんはどのような様子ですか?』
そう聞かれ、僕は見たままの症状を出来るだけ詳しく伝えた。
すると、担当医に代わりますので少々お待ちください、と言う言葉の後保留のオルゴール音が鳴り出す。
僕としては電話で話すよりも、一刻も早く連れて行って直接診てもらいたい思いだったのだが、大人しく再び繋がるのを待った。
程なく、一分も経たずに獣医が電話に出る。
しかし、その口から出た台詞はまったく想定外のものだった。
『それはおそらく、メスの発情徴候です』
「は…?」
『落ち着きなくうろうろしたり、苦しそうに鳴いたり腰の辺りを触ると嫌がるでしょう?』
「ええ…そうです」
『それは発情のサインなんですよ。年齢から言ってもちょうど時期ですしね。とかく発情中は外に出たがるので、絶対出さないように気をつけて下さい』
外に出しちゃうとまず確実に妊娠しちゃいますから、と医者が言う。
「はぁ、でも……あの」
『数日中には治まりますので。何か問題が起こったら連れて来て下さい』
それで電話は終了した。
病気でも何でもないと医者の折り紙がついたことは非常に喜ばしいことなのだが、ひとつだけ大きな問題がある。
「キョン君が……雌の、発情徴候……?」
わが家の愛猫が、歴とした雄であるという事実だ。
飼主の憂鬱
僕はこめかみを押さえて思案した。
猫の生殖行動といえば、聞き齧りだが発情したメスがまず鳴き声と匂いでオスを誘い、それからオスが発情し事に至るという。雄が先に発情し異性を誘うなど聞いたことがない。
ましてやオスネコが雌と症状を同じくした発情を迎えることなんて、生物学的に有り得るのだろうか。
しかし今現在実際に起こっているのだから仕方がない。
電話を切った後、寝室を覗くと再びベッド上に戻って丸くなっている姿が見えた。
なるべく刺激しないよう静かに横に腰掛けると、焦げ茶色の耳がぴくりとこっちを向く。
「大丈夫ですか」
小さく声をかけると、長い尻尾で隠すように覆っていた顔を上げた。
思わずぎょっとする。
なんて目をしてるんだ。
まるでのぼせでもしたかのように頬を珊瑚色に上気させて、とろんと潤み切った瞳でこちらを見つめてくる。
「……どこに電話してたんだ?」
どうして猫が喋るのか、などと聞いてはいけない。
そういう設定だからだ。耳が四つなのも同上。小型短毛獣の耳と尻尾がついているのだから、彼が猫であることに違いはない。
「ええ…と、ちょっと病院に」
「医者なら絶対行かんぞ」
「あのですね…獣医さんがおっしゃるには、これは病気ではないそうで…」
「?…じゃあ何だ?」
オンナノコの発情行動みたいです。
などと本当のことを言えば彼の矜持を傷つけてしまうだろう。
僕は適当に言葉を濁した。
「数日で治まるみたいですから、家の中でじっとしていて下さいね」
妊娠云々の問題以前に、異性を求めて徘徊されては僕が困る。
「あと、欲しいものがあれば何でも言ってください」
「ん」
少し汗ばんだ額に手を当てると、微熱もあるようだった。
いくらか冷たい掌の感触が気持ちいいのか、珍しくうっとりと目を閉じて頬を擦りつけてくる。
普段はこんな触り方をしようものなら、この上なく迷惑そうな表情で手を振り払われてしまうのに。
折角なので、もう少しその温かな感触を愉しもうと首許に指をすべらせると、
「んぁ……、」
聞いたこともない、甘えるような吐息が漏れた。
食事をねだるときやかまってほしいときの鳴き声とも、少し似ているが違う。
「………キョン、君?」
「ん、もっと……、古泉」
触ってくれ、と信じられない台詞が出た。
あまりスキンシップを好まない彼が、自分から撫でて欲しがるなんてもしかして初めてではないだろうか。
「お前に触られると…ちょっと楽になる気がする」
そう言って熱をはらんだ息を吐く。
これも発情徴候の一種なんだろうか。
ねだられるままに顎から首のライン、そして骨ばった肩甲骨へと手のひらで撫でてやると、鼻にかかった声を零して気持ち良さそうに目を閉じる。
「……なぁ、…抱きついてもいいか…?」
夢のような申し出だ。
ちょっとした感動を覚えつつ、こんな風に素直に甘えてくれるなら、彼には申し訳ないが数日と言わず常に発情していて欲しいものだ、などと勝手なことを心中で考える。
「どうぞ。勿論ですよ」
そう言って微笑むと、恥ずかしいのかもじもじと足でシーツを蹴りながら、彼がもたれ掛かってくる。
その細くしなやかな肢体をそっと腕の中に抱きとめると、躊躇いがちに体重が加わった。
いつもより体温の高い背中をゆっくりと撫でてやる。
浮き出た頚椎をたどるように手を下ろしていくと、腰のあたりに差し掛かったところで彼が大きな声を上げた。
「ふぁ…、ッあ!」
びくびくっと身体を震わせ大きくのけ反る。
急激な反応に驚いてどうしました?と声をかけると、彼は「ちょっとくすぐったかっただけだ」と真っ赤な顔で息を接ぎつつ答えた。
「ん…、……」
彼の芳しい吐息が首筋にかかって、何だか落ち着かない。
「…?、キョン君?」
もぞもぞと腕を動かしているかと思うと、顔を埋めた僕のシャツのボタンを外し始める。
「ど、どうしたんです?何を…」
狼狽して少し身体を離そうとすると、悲しげに喉を鳴らされ思わず力が抜けた。
彼のしなやかな両手が首許に縋り付くように廻されたかと思うと、シャツの襟をはだけあらわになった鎖骨のあたりを、おもむろに舌で舐めてくる。
「ちょ、っ……!」
懐を見ると、ざらざらした舌を熱に浮かされたような表情で這わせている彼が目に入る。
何ともいえない、刺激的な構図だ。
見惚れるような思いで好きにさせていると、暫くは夢中で僕の首許を舐めていたが、やがて切なげに眉根をよせてはぁはぁと息を乱し始めた。
また苦しくなってきたのだろうか。
「キョンく…」
「も、むり、だ…ッ」
横になってはどうでしょう、と僕が言うより先に、彼が僕の胸を押した。
そのまま惰性でシーツの上に押し倒される形になる。
スプリングが撓んで微かに音を立てた。
「…………あの、」
訳がわからず、僕の上に馬乗りになっている彼を見上げると、
潤んだ双眸が熱を湛えて僕を見つめていた。
「もう…、耐えられん。駄目だ。我慢できない」
赤い舌が唇の奥にのぞいている。
吐息と共に、彼の身体が僕に重なった。
「おまえが、ほしい……、……古泉…」
飼い猫相手に敬語な古泉
update:07/10/18