メランコリック・ブルー 2
がしゃんと派手な音を立てて、座っていたパイプ椅子が倒れた。
俺が殆ど蹴倒すようにして立ち上がったからだ。
そのまま反射的に跳びすさる。勢い余って二歩三歩とたたらを踏むように下がると、すぐに大して広くもない部室の黒板が背中に当たった。
こいつ、今俺に何しやがった!
「な…、…」
何するんだ、と叫ぼうと思ったが、あまりの想定外の事態に上手く言語化することが出来ず、俺は生け簀の中の鯉宜しく言いあぐねた口をぱくぱくと開け閉めした。そんな俺を古泉は珍しい見世物か何かを見物しているような表情で面白げに見つめている。
「何しやがる!!」
やっと喉から出た怒号を忌ま忌ましい微笑に浴びせる。
小首を傾げながら古泉が肩をすくめた。
「何って、キスですが。ご存知ないですか?」
「そんな訳ねえだろ!」
つーか、論点をずらすな。
今この場合の何しやがるは何故俺にキスしたのかその理由を聞いたのであって、唇と唇を触れ合わせるという行為の名称を問うた訳ではない。むしろそんなとこはこの際どうでもいい。とりあえず一発殴っていいよな?
古泉お得意の冗談で許される域をとっくに逸した行動に、さすがにSOS団内穏健派代表を自負する俺でも青筋を立てずには居られない。
「悪趣味なジョークも大概にしないと…おい、寄るなそこから動くな!」
ニコニコ無害そうな笑顔が机を迂回して近づいてくる。
何故かは分からないが、これ以上奴を半径ニメートル圏内に入れてはいけないとどこかから警告が聞こえる。俺はエマージェンシーに従って全力で威嚇したが、古泉はどこ吹く風のようだ。あっという間に距離を詰めてくる。
団長の三角錐のある机の方に足を踏み出してすぐ、しまった、ドアの方に逃げるべきだったと後悔したのは、古泉が悠然とした態度で扉の錠を下ろすのを見たからだ。何で鍵なんかかけるんだ。知りたいが知りたくない。というか何なんだこの状況は!
つい10分前にはのん気にだらけつつオセロに興じていたというのに、この数分の間に俺は古泉に友情の存在を否定され、かつ不意打ちでキスされ揚げ句狭い部室の中で狩人から逃げ回るウサギの如く角に追い詰められている。誰が見てもちょっと、いやかなり泣きたい状態じゃないか?
「冗談はもうよせ」
我ながら常套句しか思い浮かばない。
古泉はちょっと考えるジェスチャーをしながら、
「冗談…でキスは、いくら僕でもちょっと出来ないですね」
だろうな。まして俺は男だからな。
だからこそ冗談でないならなおさらお前の意図するところが理解できん。というかしたくない。そこまで俺の脳みそは柔軟には出来ていない。この状況の理由を可能な限りわかりやすく説明してもらえないか?まさか実は超能力者な上特殊な趣味・性癖の世界の住人でしたなんて言い出すんじゃないだろうな。
「ふふ…残念ながら、超能力を除けば僕は至ってノーマルで普遍的な性質だと自負してます。まあ、敢えて言うなら……あなたの所為ですね」
何が俺のせいなんだよ!
叫ぶ前に右腕を古泉の掌が掴んできて息を飲んだ。
そのまま叩きつけられるように窓に背中を押し付けられる。したたかに打った肩が痛んだ。何て力だ。その細っこい肢体のどこにそんな馬鹿力を隠してやがるんだと詰め寄りたくなるほどだ。俺より若干縦に長いのは甘んじて認めるが。
上背で勝る古泉の笑顔で見下ろされ気味の視線に、8センチの差を改めて思い知る。
「…っ、離せ」
「そのお申し出は却下させて頂きます」
いつもより更に近い古泉のハンサム顔を思いっきり睨みつける。
背後はカーテンもかかっていない窓で、二階とはいえ外からは丸見えだ。くそ、離れろ。変な噂でも立ったらどう賠償してくれるんだ。
「何か俺がお前の気に障ることでもしたって言うなら謝る。だから…いい加減に…ッ!!?」
言い終わらないうちに台詞が塞がれる。
塞いだものが古泉の唇であることに気づくまで数秒かかった。
さっきみたいな、かすめとるように触れ合わせるだけのキスじゃない。もっと深い。
「う!…んぅ、ッん ん……!!!」
忍び込むように古泉の舌が口内に侵入する。
生温かくぬめった感触に眩暈がした。引き剥がそうと必死で古泉の肩を叩いたが徒労だ。俺の抵抗などものともしない様子で古泉が角度を変えて更に口付けてくる。
「…ッ!ふ、ぁ…、……っは…、…」
歯列をぐるりとなぞられたあと、ようやく古泉が唇を離した。
歯とか舐めるな気色悪いと悪態をつくこともままならず、肩を上下させて忙しなく酸素を取り込んでいると、窓に縫いとめるように俺の身体を押し付けていた古泉の手が離れる。途端、俺はずるずるとその場にへたりこんだ。びっくりするほど足に力が入らない。
古泉が目線を合わせるように跪く。
「…っなん…、……」
言葉も出ない。頭の中がパニックだ。
どうして二回もしかも二度目は言い訳の利かないようなキスをされたのかとか、何故古泉の如才ないいつもの態度がいきなり豹変したのかとか疑問符は山ほどあったが、それより何より何とかしてこの状況から脱却しなくてはいけないという最重要事項が本能的に脳裏に浮かんだ。
「逃げようとなさっても無駄ですよ」
古泉の背後に見えるドアをチラ見していたのを察知されたのか、目が笑っていない笑顔の古泉が釘を刺す。
冷たい汗が背中を流れていくのを感じる。この状態で逃げずに状況を受け入れようと前衛的に考えられる奴がいたらお目にかかりたい。俺はそいつを尊敬する。
「こ…古泉、とりあえず落ち着けよ、な?」
「僕はいつも冷静そのものですよ」
言ってる目が怖い。どこが冷静だ。
「なあ!頼むからやめろって」
かっこ悪いほど声が上擦る。
明らかにびびっている俺に向かって、古泉がさっきまで顔に貼り付けていた完ぺきな通常通りの営業スマイルを再現した。
「残念ながらお願いは聞けそうにありません。まあ、僕にも色々と思うところはあったんですが…ぶっちゃけますとここまで来て冗談で済ますって言う手はないので」
頼むから済ませてくれ!! いや、お願いします。
心の中で叫ぶのと、視界がぐるりと回って天井を映し出すのとはほぼ同時だった。
古泉が再び両肩を掴んで俺の身体を引き倒した所為で、後頭部を思いっきり床にぶつけた。激痛に悶絶する俺の上で、古泉が爽やかに言い放つ。
「黙ってされるのと、無理やりされるの、どちらがいいですか?」
update:07/10/03